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[慶應義塾豆百科] No.66 塾歌制定の経緯

現在の塾歌は富田正文の作詞、信時潔の作曲に成るもので、昭和15年11月初旬に完成し、塾歌委員会で正式に採択決定のうえ、翌16年1月10日の福澤先生誕生記念会当夜、三田の大講堂で発表された。

ただし、これ以前にも塾歌がなかったわけではない。そもそも初めて塾歌なるものがつくられたのは明治37年3月のことで、義塾創立後やがて50年を迎えようという時期であったが、そのころはまだわが国では一般に校歌などというものの行われていないときで、義塾はその先鞭をつけたものといえよう。作詞は角田勤一郎、作曲は金須嘉之進により、同月5日に完成発表されている。

ちなみに、塾歌の要望はこれより数年前からすでにおこり、たとえば同33年3月3日の卒業式当日、芝山内三縁亭で卒業生送別会を兼ねて開かれた大学倶楽部大懇親会の席上、講師高木正義は「義塾の大学をして益盛ならしめんとせば、此種の会合に於て会衆の連唱す可き極めて人心を鼓舞する力ある塾歌(カレッジソング)を作るに若(し)かず」と説き、さらに同年11月刊の『慶應義塾學報』第33号には、後年の経済学部長気賀勘重が「溶々」と号して塾歌に擬する歌を寄せるなどのことがあった。

こうして、明治36年には義塾当局において塾員・塾生にひろく呼びかけ、塾風を表明すべき塾歌を募集することになり、同時に、塾生の有志によって組織されていた三田懇話会でも、会の事業として塾歌募集のことを決議し、また同年10月3日の寄宿舎記念会では、はやくも塾歌のうたわれた事実が報じられている。「慶應義塾之歌」と題するものがそれらしく、高橋誠一郎名誉教授の塾生時代の作ということである。

このようなうごきのなかから、ようやく制定されたのが前記の明治37年の塾歌であるが、その後、大正15年に改めて新塾歌制定の議が起こり、塾生中から歌詞を懸賞募集したり、塾歌委員会を設けてあれこれ企画がたてられたりした。それが、幾曲折を経たのち、昭和11年5月20日の塾歌委員会でついに、当時塾監局に勤務するかたわら大学文学部講師に任じていた富田に作詞を依頼した。富田は推敲に推敲を重ねてこれをつくりあげ、東京音楽学校教授信時がそれに曲を付して、新塾歌ができ上がったのである。