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[慶應義塾豆百科] No.67 新年名刺交換会

1月10日の福澤先生誕生記念会と合わせて行われる、新年名刺交換会
従前、慶應義塾では、元旦には毎年恒例として「新年名刺交換会」を催してきた。塾長をはじめ教職員、塾員諸先輩、現役の塾生諸君が多く集まり互いに新年の挨拶を交わすもので、会場には三田の教室の1つがあてられていた。

そして、三色旗や紅白の幔幕をはりめぐらした正面の中央に福澤先生の肖像画、左右に先生の遺墨数点をかかげ、さらにその前の教卓の上には大鏡餅を供えてお正月の飾り付けをし、参会者はまずこの大鏡餅の前の黒塗りの大きな盆に名刺を置いて先生の画像に一礼し、それからお祝いの盃をかたむけながら祝日の午前を随意に一同交歓しあうのがならわしであった。

つまり、名刺交換とはいうものの実際にいちいち名刺をやりとりするのではなく、先輩後輩友人知己が一堂に会し、談笑のうちに新年の挨拶を1度にすませることができるのであって、世間ではこういう集いがとかく形式にのみ流れて無意味なものとなりがちのようであるが、塾ではその点はなはだ便利で楽しく、しかもいかにも新年にふさわしい和やかさを醸した催しであった。

ところで、このような慣例がいつはじまったかというと、次のような形式の「新年名刺交換会」は明治38年の元旦からのようで、前年の12月に出た『慶應義塾學報』に「新正ヲ祝シ旧誼ヲ温ムルノ趣意ヲ以テ本塾内ニ名刺交換会ヲ開キ」云々という、「慶應義塾新年名刺交換会発起人」による広告がはじめて載っている。また、その翌年1月のそれについての同誌の記事を見ると、当時は午前9時から午後4時まで1日中開かれていて、特に初会は日露役の戦勝の春にあたって大いに活況を呈したということである。

しかし、このような新年の集いそのものはもちろんもっと古く、福澤先生の在世中からすでにあった。すなわち、『学問のすゝめ』の第5編は明治7年の元旦「社中会同の時に述べたる詞を文章に記」されたもので、すでにそのような集会の開かれていたことをうかがえるし、さらに『福澤文集』2編の巻2には「明治十二年一月廿五日慶應義塾新年発会之記」というものが収められており、これは元旦ではないが、やはり新年を期して先生を中心に社中の多くが会合したことを知ることができよう。ただ昭和42年から名刺交換会の開催日が変更、1月10日の福澤先生誕生記念会と合わせて行われることとなり、現在に至っている。