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[慶應義塾豆百科] No.65 消費組合

消費組合内部
三田山上の東北部、図書館(旧館)の増築書庫部分から研究室の立つ地域一帯に、かつて400名を収容し得る大規模な寄宿舎が建っていた。この寄宿舎はそこに居住する塾生の生活の場であると同時に、共同生活の経験を通して、自由と規律を重んじる一個の社会人を養育する教育機関でもあって、寄宿舎の持つそのような機能を遺憾なく発揮して、十分にその教育的効果を上げたものに、寄宿舎内に設けられた消費組合がある。

これは寄宿舎が出来た3年後、明治36年(1903)9月当時理財科で教鞭をとっていたヴィッカーズの消費組合に関する講義を聴講していた塾生が、寄宿舎内で消費組合制度を導入しようと検討しはじめ、舎監堀内輝美の勧めもあって、義塾独自の株式制度を採用し、実現の運びに至ったものである。この義塾寄宿舎内に誕生した小規模な「慶應義塾寄宿舎消費組合」こそ、わが国最初の消費組合であったのである。

消費組合は資本金を125円とする株式組織で、1株50銭の記名式株券を250口舎生から募り、さしあたり第1回の払い込みは半金の25銭、第2回以降は必要に応じ漸次払い込むこととした。株券は自由に売買、譲渡することが許されていたが、むろん株主は寄宿舎生に限られており、株主の中から専務取締役及び取締役が選ばれて経営に当たり舎監が監査役として監督したが、もちろん舎生中心の活動であった。営業は寄宿舎の1室に学用品や食料品等を陳列し、店員1名を雇い入れて行われていた。

当時わが国には産業組合法が成立していたが、これに準拠した組合は未だ少なく、なじみの薄いものであったため、義塾の組合は社会の注目を浴び、『平民新聞』(明治36年12月20日付)は早速これを報道し、産業界にも普及することを希望すると記している。

株式組織の消費組合は順当に利益をあげ、創設の翌年には株主に対し株金全部を償還して株式組織を改め、舎生全体の経営とすることとし、すでに構内にあって学用品を販売していた店舗を買収して寄宿舎の外に進出し、塾生一般にも販売するようになった。

この消費組合の運営は、明治19年(1886)福澤先生の発案で発表された「慶應義塾督買法」(或は「邸内督買法」)の主旨を実践したものとみられる。この方法は三田の構内に生活する塾生や教職員が、日常の生活費に無益の失費を少なくしようとの考えから実施されたものであった。

 (注)この消費組合については、経済学部の白井厚研究会の編著になる『慶應義塾消費組合史』(1990年、慶應義塾大学出版会刊)の記述によるところが多い。