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[慶應義塾豆百科] No.73 三田の大講堂

大講堂(大正4(1911)年竣工)
東北部の一角に北館(当時は北新館)が完成(平成6年3月)し、三田の山も大きく変貌した。昔の名残をとどめる建造物といえば、三田演説館、図書館(旧館)、塾監局だけで、太平洋戦争前に完成し新館と当時呼ばれていた第1校舎も、いまは教室棟としては最も旧い建物となってしまった。それだけに研究教育施設の充実は目を瞠るばかりで、創立100年記念建設事業の1つとしての南校舎・西校舎(昭和34年5月完成)、続いて研究室棟(昭和44年11月完成)、図書館(新館・昭和57年4月開館)、大学院校舎(昭和60年2月竣工)と継続進行し、学問教育の府としての三田キャンパスの現状は、かなり誇れるものといえよう。ただ戦前戦中の三田を知るものにとって、1つの心残りといえるものは、ユニコンの像で親しまれた大講堂が、戦災で失われたままでいることである。この大講堂が建てられたのは大正のはじめで、その壁にはめられていた銘盤には「本講堂ハ財団法人森村豊明会及福澤桃介氏ノ寄付金ヲ以テ建築セリ 大正2年12月起工・大正4年5月竣工」と刻まれている。建設に要した経費7万円は前記の森村市左衛門(金5万円)福澤桃介(金2万円)両氏の寄附によって賄われたもので、総坪数225坪(約750平方メートル)、収容人員2000人の、当時としては都下屈指のホールであった。設計監督は図書館旧館と同じく曾禰達蔵と中條精一郎があたった。この大講堂の完成によって、入学式、卒業式、その他大学の主な式典はすべてこの大講堂を使用することで用を弁じたのであった。そしてここを会場にして催された講演会、音楽会、演劇などは、知的刺戟に乏しかった当時の市民にとっても、格好の文化センター的役割を果たすホールでもあった。事実、落成後最初の演奏会には、イタリアの歌手ザルコリーが歌っているし、インドの詩人タゴール、世界的科学者アインシュタインが講演したのも、この大講堂においてであった。塾生たちもいつからかこの講堂を大ホールと呼び、課外文化活動の華やかな発表の場でもあった。殊に関東大震災によって一部が破損し、入口その他を修復改装した結果、正面バルコニーの上に1対のユニコン像が置かれたことは、このホールを塾生により身近なものとしたといってよい。そして昭和18年11月、学徒出陣の壮行会が挙行されたのもこの同じホールであった。だが20年5月の大空襲は、この記念すべき大ホールを一挙に廃虚と化せしめ、復員した塾生たちを迎えた三田山上には、赤錆びた鉄骨と赤レンガの瓦礫のみが空しく残るだけであった。そしていま、わずかに「しぐるゝや大講堂の赤れんが」の万太郎の句碑によって、昔を偲ぶほかなくなっているのは寂しい。この大講堂の跡地に立てられたのが西校舎である。

平成10年(1998)12月から工事が進められていた東館は、平成12年(2000)4月に完成した。東館は図書館(旧館)の外装を再現し、景観的な調和を意図し設計された。建物中央に位置する三層吹き抜けのアーチ型天井をもった通り抜け空間はアーケードと呼ばれ,かつてここにあった東門(幻の門)の、三田山上へのアプローチとしての機能とシンボルとしての存在感を受けついだ。アーケード入り口上部のペンマークの下には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語が記されている。