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[慶應義塾豆百科] No.58 海外派遣留学生

川合貞一の留学先からの「絵はがき」
明治32年7月4日、慶應義塾評議員会は1つの重要な決定を行った。それは海外に留学生を派遣しようというもので、議事録によれば、「教員養成の目的を以て外国に留学生を送ることを決す」とある。次いで翌8月4日に開かれた評議員会では、具体的な5名の留学生の人選が決められたようで同じく議事録にはこう記されている。「留学生神戸寅次郎、気賀勘重、川合貞一の3名を独逸に、堀江帰一、名取和作の2名を米国に派遣し、且つ神戸寅次郎へ金参千円、気賀勘重、川合貞一の2名は親戚の補助あるを以て各金壱千円、堀江帰一、名取和作の弐名へ各4千円を支給し、合計金壱万参千円にして、大抵諸君の前会に決議せられし程度の金額を支出する旨会長より報告せり」と。この留学生派遣は、義塾のみならず日本の私学にこの種の試みの先鞭をつける壮挙でもあった。

よく知られているように、義塾に大学部を設け、文学、理財、法律の3科をおいたのは明治23年のことで、修業年限3か年の総合大学の発足となったが、その主任教師はいずれも外国人教師であった。すなわち米国ハーバード大学総長エリオット博士の推薦によりリスカム(文)、ドロッパース(理財)、ウィグモア(法)の3名が、それぞれの主任教師に就任したのである。しかも当時の教授陣容を見ると、義塾出身者はきわめて少なく、その大半を塾外の内外国人教師に頼るという実情であった。けれども大学部の充実に伴い、真の意味での慶應アカデミズムの確立のためには、その教授スタッフも義塾出身者をもって当てるべきだとの意見が高まってきたのは当然で、それには大学部の教員養成は緊急の課題であった。そしてこれを強力に推進したのは門野幾之進であった。彼はそれより前明治31年から2年にかけて約1年2か月の歳月を費やして、ヨーロッパ及びアメリカの諸大学や各国の教育制度などを、親しく見学し調査して帰朝した。その門野の最初の仕事が、若い学者を海外に留学させることであった。しかもここで特筆されねばならないのは、当時の義塾財政が決して豊かではなく、むしろ収支の面で大幅な赤字を計上していた時期での派遣だったことである。経営よりも学事を優先させたその姿勢は高く評価されてよく、またこの第1回留学生は義塾社中の期待に応えて、後年、義塾の研究と教育に大きな役割を果たしたのであった。