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[慶應義塾豆百科] No.59 修身要領

福澤自筆の「修身要領」
慶應義塾に「修身要領」と題する一種の道徳綱領が制定されたのは、明治33年2月11日のことで、その全文29か条は同月25日の『時事新報』紙上で公表された。この綱領は直接福澤先生の筆になるものではないが、先生の指示で門下の高弟たちの合議に基づいて作成され、編纂に着手したのはその前年の秋であった。作成に当たったのは、小幡篤次郎、鎌田栄吉、福澤一太郎、福澤捨次郎、石河幹明、土屋元作の6名で、最初の草稿「独立主義の綱領」を起草したのは土屋であった。注目されるのはこの草稿の表紙裏に「此稿11月3日成。4日福澤先生に呈す。5日先生宅に於て第一会、出席小幡先生、一太郎氏、石河氏、小生。12月8日小幡先生宅集会、出席石河氏、小生。同11日夜小生第二稿成」とあることである。そしてこの段階で先生から1つの提案がなされた。それは編纂委員に日原昌造(ひはらしょうぞう)をぜひ迎えたいとするものであった。当時日原は山口県豊浦に隠棲していたが、福澤先生の懇請により歳末に上京、年が明けると共に日原を交えて再び協議を重ねたが、席上日原は個々の条文の検討はともかくとして、この綱領全般を通じての基調と成るべき項目をまず決めることを主張し、かりにそれを「独立自尊」(或は自重)としては、と諮(はか)ったところ一同異議なく賛成し、その後幾度かの会合をもちながら、一太郎や鎌田らの手で全体の構成と条文の作成が行われたのであった。その過程で福澤先生に大筋での指示を仰いだのはいうまでもなく、例えば当初「修身綱領」とあったのを「修身要領」と改めたのは、福澤先生の示教によるものであった。そして最後の仕上げに当たったのが石河幹明と小幡篤次郎であった。石河は『時事新報』で論説を担当、その文章はよく福澤の衣鉢を継ぐ人といわれていた。こうした手順を経て生まれた最終稿に対して、福澤先生はその第1条をむしろ前文とすべき旨の助言をされたのであった。全29条という箇条的にはいささか半端な構成となったのはそのためである。

この「修身要項」の発表は義塾社中に大きい影響を残すと共に、一部からは激しい攻撃をも受けた。批判の第1はこの要領には忠孝の教えがなく、しかも道徳は時代と共に変化するものだとした点で、「教育勅語」に背馳するとの指摘であった。ともあれ「独立自尊」という言葉が、義塾建学の精神の象徴として定着したのは、「修身要領」制定以降の所産といってよい。