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[慶應義塾豆百科] No.47 大学部の発足

大学理財科第1回卒業生写真(最前列中央はドロッパーズ教授)
慶應義塾に大学部が発足し、文学・理財・法律の3科を設置したのは、明治23年(1890)1月のことであった。修業年限は3か年、各科の主任教師として文学科にはリスカム(W.S.Liscomb)、理財科にはドロッパース(G.Droppers)、法律科にウィグモア(J.H.Wigmore)の3人の外国人教師が迎えられたが、いずれも当時のハーバード大学総長のエリオットの推薦によるものであった。

それより前明治19年3月には、帝国大学令が公布され、東京大学が法・文・理・医・工の各分科大学よりなる帝国大学に改組された事実は、福澤先生にとっても大きな関心事であった。同年11月11日付で米国留学中の長男一太郎に送った書翰には「近来は塾生も至て多く、和田の子供を合して590余名、毎日入社の人有之、英語はますます盛に相成、唯この上は資本金さへあれば大学校に致度と教員は申居候」とあり、さらに翌20年3月28日に猪飼麻次郎に宛てた書翰には「本塾にも入社頻に多く、昨今は既に800余名に相成、却て困却致居候。本年9月後は数学と語学の専門科を設け、追々金さへあればユニヴハシチに致度語合ひ居候」とあるのは、先生の大学部発足にかけた夢を語るものである。

問題はその資金であった。幸い明治20年という年は、組織面では、総長に小泉信吉、会計建築長に浜野定四郎、教場長に門野幾之進、塾監に益田英次とその陣容が整い、また施設面でも、中村道太の1万円の寄付によりレンガ講堂が完成し、塾内の大勢も大学部発足に向けて動き始めていた。

そこで明治22年に至り、福澤、小幡、小泉3人の名をもって大学部発足のための資金募集に着手した。その結果、翌23年末までに申込高で12万7147円、払込高7万9407円という募金に成功したのである。

かくして22年11月から大学部の学生募集をはじめ、翌年1月中旬に入学試験(慶應義塾における入学試験の嚆矢)を行い、文学科20名、理財科30名、法律科9名、合計59名の合格者を決定した。当時の受験料は1円、入学金は3円、授業料は年額30円であった。なお外国人教師の招聘に当たって、ユニテリアン協会の宣教師ナップ(A.M.Knapp)が重要な斡旋の役割を果たしたことが、名誉教授清岡暎一のアメリカ側資料による考証で明らかになった。因に評議員会記録によればこの3人の給料に年総額6900円の支出を可決している。