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[慶應義塾豆百科] No.26 福澤諭吉終焉之地記念碑

三田キャンパスに建つ、福澤諭吉終焉之地記念碑
2月3日は福澤先生の命日である。明治34年(1901)のこの日、先生は三田山上の自邸で逝いた。死因は脳出血であった。先生が脳出血症に襲われたのはこの時が初めてではなく、31年9月26日にも同じ発作で倒れている。その時は幸い一命は取りとめ、元通りとは言えないまでも日常の起居には不自由ないまでに回復した。そして34年の正月には「獨立自尊迎新世紀」と大書した先生であったが、1月25日、夕食を了えて午後8時ごろ便所から出るとき左足に麻痺を覚え脳出血症を再発、9時過ぎにはほとんど人事不省に陥った。以後昏睡状態が続き、北里柴三郎、三浦謹之助、松山棟庵、山根文策ら主治医の懸命の看護も甲斐なく、2月3日午後10時50分、遂に死去された。

ところで先生が生まれた大阪には生誕之地記念碑が昭和4年に創建されたにも拘らず、終焉の地である三田山上には、戦災により福澤邸が焼失した後も、なんらの標識も立てられることなく放置されてきた。その現状を遺憾とした大正10年三田会の諸君が、たまたま昭和46年が大学卒業50年に当たり、且つまた三田移転100年でもあるので、それを記念して福澤邸跡に先生の終焉之地記念碑を建てたのであった。除幕式はその年の3月23日に行われたが、記念碑は高さ140センチ、幅70センチ、厚さ40センチの御影石で造られている。碑の表面には「福澤諭吉終焉之地」と題する標識とともに、福澤先生の閲歴を記した撰文が刻まれている。即ち、「豊前国中津藩下級士族の子と生まれ門閥の檻の中から飛び出したまたま蘭学を修業し洋学塾を開き米欧に遊び教育奉公の一念に燃え西洋文明東道の主人となり封建的農業国家から統一的商工国家に移ろうとして多難な国の歩みを続けている新日本を指導した福澤諭吉はその多彩なる68年の生涯をこの地に終る」とある。題字、撰文ともに本塾大学名誉教授高橋誠一郎の手になるもので、陣の側面には「八十八翁」と記されている。

なお、記念碑の周囲一面には薮蘭が植えられているが、これについても少しくふれておかねばなるまい。というのはこの蘭は福澤先生がその青春の幾年かを過ごした緒方洪庵の適塾の中庭にあったものを、洪庵の曾孫緒方富雄東京大学名誉教授は「適塾蘭」と命名し、その好意でここに一部が移されたものだからである。