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[慶應義塾豆百科] No.1 福澤先生誕生地記念碑

福澤先生誕生地記念碑
福澤先生は天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)大阪で生まれた。先生の父百助(ひゃくすけ)は当時大阪にある中津藩蔵屋敷に勤めていた。もっとも先生の在阪は、父が早世したため生後18か月目には郷里中津に移ったが、緒方洪庵の適塾での4年の青春の日々を含めて、先生の人間形成に、町人の街大阪の与えた影響はやはり否み得ない。

ともあれ大阪堂島玉江(たまえ)橋北詰に当たる先生の誕生地を記念して、これを後代に伝えたいとの話は、古くは明治36年、先生歿後の三回忌に大阪在住の塾員の間で、記念碑建立が発議されたのが最初である。これには時の知事の支援もあったが、実を結ばずに終わった。蔵屋敷の場所そのものは、堂島中学校、北野中学校、堂島高女と変遷を重ねたが、その後記念碑建設が塾員の間で再び話題にのぼり、本山彦一、平賀敏、物集女(もずめ)清久らが中心となって具体化を進め、碑の建立に要する敷地を塾員有志で買い取り、それを再び学校に寄付する形で知事の内諾も取り、諸般の準備をととのえていた。だがこの計画も堂島高女の焼失と、敷地そのものが大阪医科大学(大阪大学医学部の前身)の所有に移り、大正11年4 月にはその付属病院である山口厚生病館が建てられ、先生の産湯の水を汲んだといわれている井戸も取り壊されたため、同病院地下廊下の井蹟に当たる場所に「福澤井蹟」と刻した大理石を敷き込むにとどめた。

こうした曲折の末、待望の誕生地記念碑が建ったのは昭和4年11月のことであった。碑は鋳銅製の円塔で、塔身約60センチ、高さ3メートル、朝倉文夫の設計に成る御影石の台座に置かれ、犬養毅の筆で「福澤先生誕生地」と書かれ、撰文は鎌田栄吉である。だがこの碑も戦時下の銅鉄製品回収で供出を余儀なくされ、戦後昭和29年に至り関係者の尽力で漸く再建された。鳩を象った御影石の碑(高さ1メートル66センチ、全幅1メートル33センチ)には小泉信三の筆で「福澤諭吉誕生地」と記され、西川寧の記した高橋誠一郎の撰文には「彼(百助)は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な5番目の子を産んだ時、「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと伝へられてゐる。封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを仏門に入らしめる以外にはなかったのであらう。当時に於いてこの子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見したであらうか」とある。この碑はさらに昭和60年には先生生誕150年を記念して、本来の中津藩蔵屋敷の地へ移築(従来建立された位置から約50メートル西側へ移動)すると共に、新たに石川忠雄揮毫の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」の文言を刻んだ白御影石(高さ80センチ、全幅1メートル20センチ)の生誕記念碑が建立され、1月13日に除幕式が同地で行われた。