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[慶應義塾豆百科] No.25 福澤記念園

昭和22(1947)年9月に完成した
福澤記念園
三田通りに面する東門(旧表門)を入って左へ坂をのぼりきったところに福澤記念園がある。現在の正門からは、いったん右へ突きあたって左折する坂道の東側一帯の地で、福澤先生の邸宅のあったあとである。

福澤先生は明治3年、芝新銭座に住んでいたときに熱病にかかり、回復ののち、湿気の多い同地をきらって、翌4年の春、慶應義塾とともにこの三田の台地に移転してきたのであった。そして、同34年2月に死去するまでまるまる30年間、先生はこの地(いまの「福澤諭吉終焉芝地記念碑」)に住まって、三田の聖人、三田の大先生と仰がれたのである。

もっとも、三田に移った当初の先生の住居は、いま図書館旧館が建っているあたりにあったということで、記念園になっている三田山上の東南隅に家を建てられたのは明治7、8年ごろのことと伝えられ、はじめは2階建ての洋館であったのを、同12年ごろ玄関わきの応接間および書生部屋以外はいっさい日本流の建物に改造し、さらに24年ごろ重ねて改築がほどこされて、建坪400坪(1300平方メートル)にあまる大きなものであったという。

ところが、昭和12年4月になって、東京都市計画道路(市内線第13号)用地として敷地のうちの456坪余を削られ、庭園の大半を失ったため、福澤家は広尾の別邸に移転することとなり、同13年6月、先生の嫡男一太郎の一周忌に際して、嫡孫八十吉から、この邸宅が仏間を除き慶應義塾へ寄付された。

そこで、義塾では福澤先生の後半生をおくった由緒あるこの邸宅をながく保存し、塾生たちの訓育に資するはもとより、新時代の日本文化の偉大な指導者であった先生の終焉の地という史的遺跡としても、これをぜひ意義あらしめようとしたのであるが、時はすでに日華事変の最中であり、やがてはそれが太平洋戦争にまで拡大して、この邸宅もまた戦火の犠牲になってしまった。

そのあとに昭和22年9月、こんにち見るような福澤記念園が大正10年理財科E組同窓「十E」会の厚意によって設けられたのである。ただ、その後、義塾創立100年記念行事の一つとして南校舎の建設と、それに伴う正門の南側への変更のため、車道用地として記念園の敷地のかなりの部分が切り取られ、いまではささやかな小庭園になっている。