メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 福澤先生と「環境」

2005/01/15 「塾」2005年WINTER(No.245) 掲載
わが国の近代化を「実学」によって先導した福澤先生だが、その「自然」や「環境」に対する姿勢は、あまり知られていない。
先生の説く「実学は」、物事の根本的な道理を重視しており、自然の摂理に対しても、十分な理解と配慮を求めていた。
今回は、福澤先生による画期的な環境保全の取り組みを紹介。
その理念が生かされた日吉キャンパスのエピソードとともに、慶應義塾に息づく「実学」としての環境保全の思想について考えてみる。

- 福澤先生、故郷の名勝を私財によって守り抜く

<1> 『耶馬渓勝景図』(明治32年) 
<1> 『耶馬渓勝景図』(明治32年) 
<2> 耶馬渓競秀峰の近景
<2> 耶馬渓競秀峰の近景
 菊池寛の名作『恩讐の彼方に』で広く知られる「青の洞門」は、現在の行政区画では福澤先生の故郷・大分県中津市の南方もある本耶馬渓町に位置する。菊池寛の小説では、青の洞門成立の経緯は、僧了海をめぐる仇討ち話が絡んだ実にドラマチックな展開となっているが、史実とはやや異なる。実際は今から250年ほど前、諸国遍歴の途上でこの地を訪れた禅海和尚が、通称“鎖渡し”と呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、村人のために安全なトンネル道を造ることを決意。和尚がノミと槌だけで掘り抜いたトンネルは、全長約342メートルにおよび、30年もの長い歳月をかけて完成したという。
 かつて「天下無双の絶景」であると頼山陽が激賞した耶馬渓は、青の洞門辺りから始まる。洞門の上にそびえ立つ「競秀峰」は、耶馬渓でも一、二を争う勝景として知られ、奇岩、奇峰が互いに「秀を競い合う」ように大空に向かって立ち並んでいる。現在に至るまで残されているこの自然の絶景には、福澤先生の故郷の自然を思う気持ちと、その知られざる尽力が隠されている。
 石河幹明著『福澤諭吉伝』によると、1894(明治27)年春、福澤先生は一太郎、捨次郎の2人の息子を連れて、先祖の墓参りのため20年ぶりに故郷・中津に帰省。その折りに1日を耶馬渓に遊んだ先生は、競秀峰付近の山地が売りに出されているという話を耳にした。このかけがえのない絶景が心ない者の手に落ち樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを恐れた先生は、「此方のにて之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書簡)ことではあるが、一帯の土地を購入することを決心。旧中津藩の同僚で義兄にあたる小田部武を名義人として、前出の手紙の宛先人である曽木氏の周旋により、複数の土地所有者から一帯の土地約120アール(1万2000平方メートル)ほどを、自分の名を表に出さず、少しずつ目立たないように購入していった。小田部は、維新後、中津において地所売買の仲介などを行っていたため、こうした土地購入の名義人として好都合の人物だったと思われる。
 土地の名義人は、1900(明治33)年9月、家督相続で小田部菊市の名義になったが、まもなく同年11月に売買の形で、福澤先生と一緒に耶馬渓に遊んだ福澤捨次郎の名義に書き換えられる。これで形式上の名義人から、正式に福澤家の土地となった。1927(昭和2)年には家督相続により、福澤時太郎名義になり、その間に、この一帯の地所は景観のために保護される風致林に編入された。しかし、福澤家は必ずしも地所の所有にこだわったわけではない。前出の『福澤諭吉伝』には「何分遠隔の地所のことゆえ管理も十分行き届き兼ねるので、昭和三年同地真坂村の尾家某に其所有権を譲渡して風致の保存を図ることとなった」と記されている。現在の持ち主は数人に分かれている。
 心ない開発から自然環境・景観を守るために、私財をもってその土地を購入する……福澤先生が故郷を思う気持ちから実行したこの試みこそ、わが国における自然保護・環境保全のためのナショナルトラスト運動の先駆けということができるだろう。
<3> 中央の山が青の洞門や羅漢寺を含む競秀峰
<3> 中央の山が青の洞門や羅漢寺を含む競秀峰

- 環境との調和を考慮した「日吉台」の開発余話

<4> 国宝「秋草文壺」
<4> 国宝「秋草文壺」
 こうした福澤先生の環境保全に対する姿勢は、慶應義塾社中にも着実に受け継がれていた。
 1930(昭和5)年、慶應義塾では大学予科以下の諸学校を三田から移転させることを決定した。その移転先である日吉台は、武蔵野の面影を残す山林が残る眺望も良い丘陵地で、東京近郊きっての景勝の地だった。そのため、敷地内の道路の敷設や運動施設の建設にあたっては、周囲との環境が重視された。また、植樹される銀杏・欅・ヒマラヤ杉などの樹木は、担当理事を務めた槇智雄が一本一本自ら立ち会って選定したと伝えられている。
 また、校地整備のための土木工事によって次々に発掘された遺物は、三田史学会によって本格的な学術調査が行われ、その結果、数多くの弥生式竪穴住居址や古墳が発見された。日吉台は古代人の一大集落であったのだ。発掘調査の結果、鏡・竹櫛・玉類等、1700点以上の出土品があり、それらは一括して重要文化財に指定された。現在、義塾の所蔵する国宝「秋草文壺」もこの近辺で発見されたものである。住居址の多くは校舎建築により保存することが難しかったため、完全な形を持つ住居址一基をコンクリートで固定した。これはわが国における初の試みであり、学会にも大きな影響を与えた。
近代化を急ぎ、「環境」をそれほど重要な問題としていなかった時代にあって、福澤先生は、まさに「独立自尊」の姿勢で環境保全の先駆的な試みを実行された。その営為の根本にあるのは、やはり「実学」である。「一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり」。物事の根本的な道理を見極めた上での「実学」の効用を説く福澤先生は、自然の利用にあたっても、その摂理を深く理解することを求めた。そしてその自然に対するスケールの大きな思想は、現在も耶馬渓「競秀峰」や日吉キャンパスの美しい並木道で確かめることができるのだ。