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[ステンドグラス] 福澤諭吉と「食」

2005/07/01 「塾」2005年SUMMER(No.247)掲載
福澤諭吉は、幕末期より啓蒙思想家として情熱的に西洋文明の紹介に努めた。
それは学問や思想ばかりでなく、人々の衣食住などにも及んでおり、
3度の西欧体験をベースに『西洋衣食住』という絵入りの実用書まで出版している。
そして明治以後、福澤先生は科学的裏付けをもって肉食をPRするなど、
食の近代化にも大きな役割を果たした。その足跡をたどってみたい。

- ヨーロッパで実感した「食に攘夷なし!」

 『福翁自伝』をひもといてみると、福澤先生が「食」に強い関心を持った人物であったことがわかる。
「上等の酒をウント飲んで、肴も良い肴を沢山食い、満腹飲食したあとで飯もドッサリ食べて残すところなし」という記述からも、若い頃の豪放磊落ともいえる食道楽ぶりがうかがえる。後年になると食と健康の関係にも十分配慮されており、30代半ばより節酒を心がけられていたようである。また9人の子どもたちの養育に関しては次のように述べている。
「養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服は着せても滋養物はきっと与えるようにして、九人とも幼少のときから体養に不足はない」
 明治期には、肉食や乳製品の普及に尽力され、慶應義塾の食堂にも早くから西洋食(パン食)を導入した。先生自身も朝食でのパン食を好み、滋養豊かなパンの耳を食べずに捨てた塾生を叱責するというエピソードも残している。こうした西洋の食事に対する積極的な姿勢は、単に嗜好の問題だけでなく、近代化に欠かせない西洋文明の積極的な導入という使命感があったことは間違いないだろう。文明開化という大事業を担う国民一人ひとりの健康のためにも、新しい食文化は必要不可欠だった。
 福澤先生は幕末期に『西洋事情』をはじめ文明の先進国である西洋文明を紹介する多くの著書を出版したが、その中の一冊として1867(慶応3)年、『西洋衣食住』という絵入りの小冊子を著し、西洋のテーブルマナーや食事につきものの酒類をわかりやすく紹介している。
「西洋人は箸を用ひず。肉類其外の品々、大切に切りて平皿に盛り、銘々の前に竝べたるを右の手に庖丁を以てこれを小さく切り、左の手の肉刺に突掛て食するなり。庖丁の先に物を載せて直に口へ入るゝは、甚不行儀のことゝせり」(『西洋衣食住』食の部・冒頭部分)
 咸臨丸で渡ったアメリカで初めて飲んだビールについては「是は麦酒にて、その味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」とその効用と味わいについてコメント。ちなみに、若い頃は大酒飲みであった福澤先生は、晩年、節酒を実行されていたが、晩酌時にはビールが欠かせなかったといわれている。
 文久遣欧使節団の傭通詞し(=通訳)として約1年間ヨーロッパ諸国を巡った際、宿泊するホテルの食堂で、一行が西洋料理を味わった時のことを福澤先生は「いかなる西福澤諭吉と「食」洋ぎらいも口腹に攘夷の念はない」(『福翁自伝』)とユーモアを交えて述懐しているが、あるいはこの時に、言語の違いを超えて近代文明の有り様を多くの人に実感させる「食」の効用に気付かれたのではないだろうか。

- 福澤先生の朝食は「パンにカフェオレ」

『増訂華英通語』(1860(万延元)年)
『増訂華英通語』(1860(万延元)年)
 パンやコーヒー、そして牛肉など西洋の食品を好んだ福澤先生の「好み」は、幕末期に3度にわたりアメリカとヨーロッパに滞在した経験で培われたと思われる。ただし、蘭学を志し、長崎で学んでいた当時から、食を含む西洋の生活習慣と接し、憧れを持たれていたようだ。また、大坂の適塾で塾長を務めていた当時、他の塾生とともに牛鍋屋で食べ、飲んだという記述が『福翁自伝』に見られる。福澤先生が適塾塾長だった1857~58(安政4~5)年のこと。つまり1859(安政6)年の開国以前の話である。7世紀後半、天武天皇が肉食の禁止を発令して以来、日本人は、実に1200年の長きにわたり牛肉を食べることを禁じられており、もちろん当時もご禁制の品であった。わが国で肉食の禁が解かれたのは、1871(明治4)年12月のこと。翌年1月、明治天皇は自ら牛肉を試食された。こうして文明開化の先陣を切って、食肉文化は日本人に浸透していくわけが、これには「食」を含めた西洋文明導入のオピニオンリーダーとしての福澤先生の影響が大きかったと思われる。
 福澤先生は、牛乳の普及にも一役買っている。そのきっかけは、1870(明治3)年、発疹チフスを患ったことだった。一時は重篤な状態に陥った福澤先生だが、毎日、牛乳を飲んで無事に快復。その後、牛乳を取り寄せていた築地牛馬会社の求めに応じて、その効用を社会に広める文章を記している。その中に牛乳と濃く煎じたコーヒーを混ぜて飲むと「味甚だ香し」という一文があり、これは日本でもっとも早い時期に紹介された「カフェオレ」ではないだろうか。ちなみに明治20年代後半における福澤家の朝食メニューを見ると、パンにバター、カフェオレもしくはミルクティーという日も見られる。あるいはパンに半熟卵を付け合わせて食することもあった。
 福澤先生自身、心からパン食などの西洋食を好まれていたようだが、文明開化の時代を生きる人々に牛肉や牛乳を勧める際には、単においしさだけではなく、栄養・健康面での客観的な裏付けをもって勧めていた。また、人々が無理なく西洋のメニューを受け入れられる工夫をされていたことも特筆すべきことだろう。1893(明治26)年、福澤先生が創刊した新聞『時事新報』に、おそらく新聞史上初となる料理記事「何にしようね」の連載がスタート。これは毎日の献立に悩む主婦に向けた実用記事で、連載中は読者から大好評を博した。紹介される献立は旬の素材を生かした和食が中心だったが、その中に、牡蠣フライ、トルコライス、スープ(ソップ)、サラダなどの洋風メニューがさりげなく盛り込まれていた。また、福澤先生の発案で設立された日本最古の社交クラブ・交詢社が発行していた機関誌「交詢雑誌」においても、西洋の食品や食文化に関する啓蒙が盛んに行われていたようである。
 このようにして明治時代には日本人の食生活に次々と新しい料理が登場した。その一つが、ご存じカレーライスで、日本人とカレーの出会いをたどってみると、またもや福澤諭吉の名が浮上してくる。1860(万延元)年、福澤先生は幕府遣米使節に随行した際、清の子卿原著『華英通語』という、英語と中国語の辞書を購入し、帰国後、これに訳語と英語の発音を付した『増訂華英通語』を出版しているが、その中に「Curry」の語を見出すことができる。ちなみにカタカナで記された発音は「コルリ」。カレーという言葉を日本に初めて紹介したのが福澤先生だったのだ。しかし、さすがの福澤先生も、この「Curry」が、やがて日本人の"国民食"にまで成長し、慶應義塾三田キャンパスの学生食堂(山食)の人気メニューとなることまでは予想されていなかったのではないだろうか。