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[ステンドグラス] 義塾の開校記念日

1998/04/01 (「塾」1998年APRIL(No.211)掲載)
今日、義塾の開校記念日は4月23日と定められている。
この開校記念日というのも創設当初から制定されていたわけではなく、創立50余年を経て後に制定されたという。
今回は開校記念日制定の経緯について振り返ってみたい。
開校記念日制定に限らず、当時の資料が極めて乏しい中で、その経緯を知ることができる資料には、次に挙げる『慶應義塾学報』と『時事新報』がある。そこに義塾の開校記念日のことが載っている。

慶應義塾記念日
 慶應義塾が芝新銭座より現今の三田二丁目に移転したるは去る明治四年四月二十三日(旧暦にて三月二十三日)なれば、義塾にては本年より毎年此日を開校記念日として休校の上種々有益なる催しをなす事とし、同時に従来毎年九月に行ひし寄宿舎記念祭をも同日に行ふ事となせり。(『慶應義塾学報』より)
 
慶應義塾記念日
 四月廿三日は明治四年慶應義塾が芝の新銭座より今の高台即ち旧嶋原藩邸に移転したる日(旧暦にては三月廿三日)に相当するを以て、此日を開校記念日と定め毎年授業を休止して学校を開放し公衆の縦覧を許す由にて、当日の各種催しは左の如くなりといふ。(『時事新報』より)

  ただ、この記事から記念日を確定するのは難しい。一つは新旧歴換算のずれ(太陽暦の明治4年4月23日と太陰暦の同年3月23日が一致しない)、もう一つは義塾の三田移転の日と4月23日とを結びつけていることに、無理があるという点である。
 また、福澤先生自身の筆なる記事からは、開塾(=創立)と改名(開校記念日)が異なることがわかる。
 
新年発表の記
 今日の会は開塾以来第二十二年、慶應義塾改名より第十二新年の発表なり。(明治12年1月)
 ここで言う開塾とは安政5年(1858年)の冬、築地鉄砲洲での開塾をさす。また、改名の年は慶應4年(1868年)ということになる。

「入社姓名録第一」における早矢仕道三と阿部泰蔵の署名
「入社姓名録第一」における早矢仕道三と阿部泰蔵の署名
 他にこの当時の記録類の中で、日付がはっきりしているものに「姓名録」というものがある。これは塾の入門者の記録である。新銭座移転後の「姓名録第一」には、慶應4年4月1日の入門者として早矢仕道三(のちの丸善創業者)の名前がみられる 。もう一人入門の日付がわかる人物として阿部泰蔵(後年塾長、理事、評議員などを歴任)の名が挙げられる。彼が「入社」した日付は、慶應4年4月2日となっている。慶應4年4月1日を西暦に換算すると「1868年4月23日」である。
 このような資料から、4月23日を開校記念日と推定したのであろう。明治42年に制定された最初の開校記念日には、盛大な行事が催されたという。『慶應義塾学報』の記事を要約すると、次のような内容であったという。


 大学予科の新入生を「帝国最初の演説館」に集めて、鎌田塾長をはじめとする講話があった。一方、当時の塾監局の上階にあった読書室では展示がなされていた。現在も記念室に展示されている米つき臼など、先生の遺品・遺稿・遺墨・著書の版木など壁面も卓上も隙間がなかった。別室ではウェーランドの経済書など古書籍類が展示されており、おそらく壁面を飾っていたのであろう。肖像画や肖像写真があり、その中には 咸臨丸に同乗していた人達のその後の写真もあったという。.教室では商工学校生が商業実習を行っている光景が見られ、理科学の器械を陳列した地下室では、前日に到着した ばかりという新器械によって電気学の実験があり、電光が閃めき渡って眩いばかりであった。参観者は終日絶えることがなかった。
現在では、開校記念日は義塾の祝日として休校になっている。
慶應義塾機関誌『三田評論』
今年の開校記念日には、慶應義塾機関誌『三田評論』創刊百年(通巻1000号)の式典が行なわれる。