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[慶應義塾豆百科] No.93 名誉博士

昭和55年7月8日、アラブ首長国連邦(UAE)オタイバ石油.鉱物資源相に対して、慶應義塾大学から名誉博士の称号が送られた。博士は0PEC会議内でも優れた石油経済理論家であり、石油価格設定に関しても、いわゆる穏健派に属し、石油消費国経済を配慮した政策の主唱者であることは、すでによく知られている。さらに博士は、わが国とUAEとの学術・文化交流に頗る意欲的であることが、法学部の推薦に基づき、大学評議会の議を経て授与された所以であった。

この名誉学位の授与は、「慶應義塾大学名誉博士規程」に基づいて行われるものである。それはきわめて簡潔な2か条の条文から成り立っている。

即ち、「(1)慶應義塾大学は、義塾の内外を問わず学問・文化の向上に対して、功績ありと認めたものに慶應義塾大学名誉博士の称号を授与することができる。(2)名誉博士の称号は、教授会の推薦に基づき、大学評議会の議を経て学長がこれを授与するものとする」とある。

この規程が制定されたのは昭和39年6月5日のことで、それ以前は昭和25年6月19日、制定の「外国人に対する称号授与に関する規程」によっており、対象は外国人に限られていたのを、現行の規程改正で、その枠を日本人にも広げたのであった。

最初に名誉博士の称号を義塾から送られたのは結核の特効薬ストレプトマイシンの発見者であるワックスマン博士である昭和28年1月6日のことであった。このオタイバ博士の場合はその時から数えて26人目に当たる。そのうち政治家としては、インドのネール、西ドイツのアデナウアー、カナダのトルドー、イタリアのファンファーニなどが含まれている。日本人としては松永安左エ門、高橋誠一郎、富田正文などがいるが、特に記憶に鮮明なのは松永の場合である。授与式の行われたのは、昭和43年5月15日、日吉記念館での義塾命名百年記念式典の席上においてであった。この日松永は齢93歳、車椅子で慶應病院の看護婦につき添われての出席であったが、母校から名誉博士を贈られた感激を、その挨拶のなかで「90歳をすぎたこの老人に、これほどの喜びがまだ残されていたとは思いもよらなかった」と語られたのが印象的であった。代理出席を認めぬ義塾の伝統は、オタイバ博士についてもわざわざの来日となったのである。

(注)最新の授与(平成7年)はハーバード大学名誉教授・社会思想家ダニエル・ベル博士で同年9月14日、三田の北館2階ホールを会場に行われた。実に前述のワックスマン博士からは46人目に当たっている。本文に上げられた人物のほかその後の授与者を若干挙げると、外国人では元アメリカ大統領フォード(昭和62年)、サハロフ(平成3年)、オーストラリア連邦首相キーティング(平成7年)等、日本人では武見太郎(昭和58年)等々である。