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[慶應義塾豆百科] No.92 学生ホール

昭和24(1949)年竣工の学生ホール
三田構内の北側低地(現在北新館所在地)、イタリア大使館の石垣にはりつく様に、ひっそりとたっていた建物を記憶する塾員諸兄姉も多かろう。この建物を昔「学生ホール」といった。今でこそ三田山上には新しい意匠の建物が群をなして建っているが、この学生ホールが山上西側に建築された昭和24年当時は、学生ホールは三田山上の最新建造物として注目を集め、「山食」を根城にした塾生の溜り場として活用されたものだった。

それはこの建物自体が、この年に建てられた大学校舎(当時は4号館とよばれていた)と共に、設計者谷口吉郎に対し、その年度の建築学会賞が授与された建物であり、内部を飾る壁画「デモクラシー」も、25年11月に作者猪熊弦一郎に対し、毎日美術賞が授けられたものだったからである。

昭和24年という年は大学にとっては記念すべき年であって、22年から始まった戦後の新制教育制度の一つの仕上げの年度で、この年からいよいよ新制大学が発足することになり、三田山上では、大学校舎として5号館(のち第2校舎)と前記4号館(のち第3校舎)が完成して授業が開始され、戦災を受けた図書館もこの年から本格的に利用できるようになり、また教室不足のため新制の高等学校が使っていた校舎も、秋には日吉が返還されて高校生がすべて日吉に移ったため余裕ができて、三田山上はようやく静謐をとり戻し、学問研究の府としての落着きが出てきた。そして日吉の戦災後、各地に分散していた工学部も、しばしの安住の地としての小金井校舎への移転がほぼ完了して、まさに新装成った新制大学として再出発した年であった。

その時、三田山上の西側、戦災の醜い姿をさらしていた大ホールの北側にあった、バラック建ての学生食堂をとりこわして建てられたのが、この「学生ホール」であった。

「学生ホール」の特色は、設計者谷口の幼稚舎校舎建設以来の一貫したモチーフである開放性が十分に配慮されており、採光通風と、どこからでも出入りできる開口部の広さが、この建物にも活かされていた。またこの学生ホールの東西の大壁面に描かれた壁画「デモクラシー」は明るい室内を一層明るくする様な色彩感覚で描かれ、多くの若き男女が大きく口を開き歌をうたい、楽器を奏で、周囲には鳥や家畜たちが配置されているという構図で、これが戦後の民主主義のいうところの「自由の謳歌」なのだということを示しているようだった。

この「学生ホール」も西校舎建設のため昭和36年に山食ごと構内北側の山の下に移築され、平成3年北館建設のためその使命をおえて取り壊されたが、その前に壁画は作者自身の指揮を得て昭和63年秋にパレットクラブの現役学生やOBの協力による修復を経て、今日では西校舎地下にある学生食堂ホールに居を移して塾生たちを見守っている。