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[慶應義塾豆百科] No.87 給与特選生制度

昭和58年に『笈を負うて北の国から』と題する一冊の本が刊行された。副題には「慶應義塾給与特選生の記録と回顧」とあるが、この制度の恩恵を受けて巣立った諸君の手になる私家本である。

この奨学制度が義塾に生まれたのは昭和16年(1941)のことであった。向学の念に燃えながらも、経済的な理由から大学への進学を断念せざるを得ない有為の青年のために、夫々の機関が各種の奨学制度を設け、資金的援助を行っているのは周知の通りである。ただ育英制度がどうあるべきかは意見が分かれがちで、少数の俊才の育英に重点を置くのか、それとも少しでも多くの人への経済的均霑を優先させるべきかは判断に苦しむところである。一般的にいって、奨学資金の財源が税金その他によって賄われる公的性格の強いところでは、とかく総花的にならざるを得ないようだ。その点で義塾が実施した給与特選 生制度はきわめて大胆で意欲的な試みであったといえよう。まず第1に、選考の対象となるべき地域を東北六県と北海道に限定したことである。その理由として「ただ漠然と成績優秀な学生を対象とするのではなく、今までの本塾入学者の出身地別実績により判断し、義塾に比較的縁の薄い地方を特定し、そこに義塾の橋頭堡的な役割をもたせるべき」意図のあったことを挙げている。さらに家庭の経済的困窮度への考慮もさることながら、人物・学業・成績のきわめて優秀な、いわば少数の英才の育成という点を優先させていること、しかもそうした俊秀の発掘に、ただ趣意書を配って応募を待つだけでなく、義塾の教授を説明に現地に派遣するなどの積極策を講じているのが注目される。その結果24名の応募があり、書類選考と口頭試問で最終的に第1回は6名の特選生を選んだのであった。それだけに給与面での配慮も手厚いもので、授業料の免除はもとより、当時の金で年額750円を支給するほか、寄宿舎も三田綱町の徳川邸(現在女子高等学校所在地)の一隅を充て、休暇の帰郷には旅費も考慮するなど、奨学制度としては画期的なものであった。続いて第2回に7名、第3回15名、第4回12名、第5回11名、第6回2名、計53名が選ばれたが、戦後の混乱はこの制度の廃止を余儀なくさせたのであった。ともあれ義塾なればこそ試み得た奨学制度といってよく、時の塾長小泉信三の英断と、財政的にこれを支えた数名の塾員の篤志とは、長く記録されて然るべきことであろう。