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[慶應義塾豆百科] No.78 山中山荘の再建

昭和3(1928)年に竣工した、以前の山中山荘。木造亜鉛葺2階建、延164坪、収容人員約80名
義塾創立125年を記念したいくつかの事業の1つに体育会山中山荘の再建があった。昭和57年(1982)に着工され、翌58年7月に竣工、塾生諸君の使用に供せられており、同記念建設事業の魁をなしたものであった。

この山荘のできたのは昭和2年(1927)、すでに半世紀以上の歳月が流れている。山中湖畔の小高い丘に位置し、敷地2万7千余坪(約9万平方メートル)、建坪330坪(約1100平方メートル)余りの山荘で、現在の所在地名は山梨県南都留郡山中湖村字平野である。当初、富士山麓土地株式会社と地元有志の好意で義塾に寄付された2万坪近い敷地がもとになって建設されたもので、最初の年の夏は、ここに仮運動場と天幕宿舎を設けて、僅かに弓術とラグビーの合宿練習を行ったに過ぎなかった。各競技場ならびに宿舎の一部が完成したのは翌3年のことで、同年7月22日に地元関係者を招いて開場記念茶話会を催している。木造亜鉛鉄板葺2階建延164坪(540平方メートル)、収容人員80名という規模であった。その後昭和11年には新館を建てて、二百数十名を収容するまでになった。さらに戦後も、再三改修増設の工事を重ね、女子寮を付設するなどの整備につとめてきた。その間、体育会所属の塾生にとっては、激しいトレーニングに泣いた忘れがたい地であると共に、この山荘の恩恵に浴した一般塾生の数も決して少なくない。現に文化団体連盟所属のクラブに籍を置いていた多くの先輩たちからも毎年6月、新入部員歓迎の合宿は、この山中山荘を利用したときいた。湖畔でキャンプファイアを囲みながら、カレッジソングを力一杯歌った思い出を胸に秘めている方も多かろう。

けれどもそうした青春の思い出の蓄積とは別に、すでに半世紀以上の歳月を経過して、どうしようもないほどに老朽化した建物はみるに忍びないものとなっていた。そこで創立125年記念事業の1つとして再建が企画実行されたのである。

ところで山荘の再建に当たって体育会関係者は3つの夢を抱いていた。即ち、(1)200名収容の合宿棟、(2)雨天の使用にたえる体育館、(3)グラウンドの1面増設がそれであった。けれども5億円という予算の枠内では体育館建設までは手がまわりかねた。しかし他の2つの夢の実現により、3つぐらいの部を同時に収容できる規模となり、現部員はもとより体育会OBの夢と期待にまず応え得るものとなっているようである。近年は殊に都会の喧騒をそのまま持ち込んだ観のある夏の富士五湖地方だが、幸い塾の山荘は中心からやや離れた場所にあるので、昔ながらの佇いが今も色濃く残っている。