メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.77 「若き血」と「丘の上」

どこの大学にも、その大学独自のカレッジソングがあるが、校歌と違い、学生たちによって愛唱されることが、必須の条件となる。慶應義塾でも、これまで多くの応援歌が生まれ、また消えていった。世の歌謡曲の盛衰と同じである。けれどもそのなかで長い歳月に耐えて、いまなお歌い継がれている作品が、真のカレッジソングの名に値する歌曲といってよい。塾の場合、人によって好みはあろうが、無難に選べば、「若き血」と「丘の上」ということになろうか。

「若き血」の誕生は昭和2年(1927)であった。この応援歌は、当時の予科会の学生たちが自らの意思で発議し、塾出身の音楽評論家野村光一に計り、野村の推薦で堀内敬三に作詞作曲を委嘱することになったのである。その頃堀内は東京中央放送局、,今日のNHKの洋楽主任で、アメリカから帰朝したばかりの新進気鋭の音楽家であった。堀内は「歌い始めの文句を元気のよいものにしたい」と考えた末に選んだのが「若き血に燃ゆる者」であったという。しかも従来の七五調とか五七調を無視し5・5・6・3という破調の字くばりにしたのは、作曲の都合からきたものだが、若い塾生たちにはきわめて新鮮な感覚と映ったようだ。しかもこの新応援歌が誕生したシーズンに、復活以来神宮球場で初めて早稲田を連破したことも、「若き血」のためには幸運であった。さらにいまひとつの幸せは、その頃普通部生として藤山一郎(本名増永丈夫)がいたことである。彼の歌唱指導はこの歌を「実質以上に美しい歌」としたとは堀内自身の弁である。もっとも普通部生のくせに指導とは生意気だと大学生から殴られ、鼻血を出した。それが本当の「若き血」だなどという噺もあるが、真偽のほどは定かではない。この思いがけぬ成功に気を良くした予科会の人々が、翌昭和3年にいまひとつ作ったのが「丘の上」である。作詞青柳瑞穂、作曲菅原明朗の名コンビで生まれたこの曲は、たまたまその秋の六大学野球リーグ戦で10戦10勝を記録したことから、そのゆるやかなテンポが、肩を組んで勝利の美酒をかみしめるに相応しいメロディであることも手伝い、早慶戦に勝った時だけ歌う歌として、塾生の愛唱歌にすっかり定着してしまった。

ともあれこの2つの歌は、誕生以来すでに70年近くを経過しているが、三田関係の会合ともなれば、きまってフィナーレの斉唱はいつも「若き血」であり、「丘の上」となる。思えば幸せなカレッジソングである。