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[慶應義塾豆百科] No.74 ユニコン

昭和50(1975)年に修復された、ユニコン像
ユニコンとはひとつの角の意で、一角獣のことをいい、ギリシャ神話に出てくる架空の動物である。そして、その像がどういうわけか、かつて三田山上の大ホールの3階の高欄にひとつがい取り付けられていた。

この大講堂は太平洋戦争で被災し、いまはなくなってしまっているが、大正4年6月に開館されたもので、ちょうど現在の西校舎の南の部分に位し、主として財団法人森村豊明会および福沢先生の女婿福沢桃介の寄付によって建設された、総坪数225坪余の鉄骨レンガ造りの三階建であった。しかし、右のユニコン像は実は最初からこの建物についていたのではなく、大正12年の関東大震災による損傷の修理に際して、正面をすっかり改装し、そのとき玄関の上の3階のバルコニーにこのユニコン像が取り付けられたのである。

ただ、なぜそれを取り付けたのか、理由はわからない。実際に当時を知る先輩の話をきいても、この2つの大きな怪物の出現には義塾の当局者さえヒドクびっくりしたものだという。のちには、あるいはパリのノートル・ダム寺院にならったもののように、もっともらしく考えたりするものもないではないが、もちろん関係はないということで、むしろ、往年の塾生たちはこれをH先生やS先生の像だなどと諷していた。

そんなことで、無意味といえばまるで無意味なグロテスクな怪像ながら、案外に愛敬もあって、いつしか教員にも塾生たちにも親しまれるようになったもののようである。しかるに、この大講堂の残骸は義塾が創立100年を翌年にひかえた昭和32年(1957)5月、取り壊されて、戦災当時のままのみじめな姿をついに消し、同時にユニコンも見られなくなってしまった。

それから5年、昭和37年11月の早慶野球戦に、それまで使われていたミッキーマウスに代わって、この大ホール玄関上のユニコン像を模した飾りが新たに登場し、応援に気勢をそえることになった。戦後10余年もの間、敗残の大ホールの上から相かわらず塾生の生活を見おろしていたユニコンは、戦後の塾生にも結構なつかしいものであったのであろう。しかも、このユニコンがはじめて登場したときの早慶戦には勝って塾はめでたく優勝し、以来ユニコンは塾生のマスコットのようにさえなっている。

それに一対の像のうちひとつは昭和50年に中等部卒業生の手より、いまひとつは昭和53年に慶應商工部同窓会の手によって復元され、三田の中等部の玄関の両脇で毎日中等部生の登下校を見守っている。