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[慶應義塾豆百科] No.71 慶應義塾図書館

創立50年を記念して建てられた図書館と初代館長田中一貞
図書館は大学の心臓だといわれる。たしかに大学の研究教育の充実のために、図書館に新たな機能を付加した整備は不可欠の要素といってよい。ところで慶應といえば、人は三田の赤レンガの八角塔を備えた図書館(旧館)を思い浮かべるが、この建物の完成を見たのは、遠く明治45年の昔であった。それより前、明治40年に義塾は創立50年を迎えるに当り、その記念事業として図書館の建設が同年12月の臨時評議員会で可決され、同時にその費用を卒業生はじめ有志の寄附によって賄うこととし、目標額を金30万円と定め、直ちに募金に着手したのである。当時30万円という金額がいかに巨額なものであったかは、明治38年度の義塾全体の年間経常支出が8万円であったことからも察せられよう。幸い社中内外より申込みが相次ぎ、目標額を越える36万円の募金に成功したのであった。建築そのものは明治42年6月に着工、約3年の歳月を費やし、同45年4月に竣工をみた。設計は曾穪(そね)達蔵、中條(ちゅうじょう)精一郎が担当、レンガおよび花崗岩のゴシック式洋風建築で本館は地階共3階建、それに6階建の書庫、および高さ60余尺(約20メートル)の4階建の八角塔を合せて建坪200坪(660平方メートル)、書籍20万冊、閲覧席二百数十名を収容し得るその頃の大学図書館としては画期的なものであった。しかもその壮麗な意匠は、明治後期の代表的建造物として今日国の重要文化財の指定を受けており、三田演説館と並んで義塾の貴重なモニュメントとなっている。そしてその後増築が施され、今日蔵書数も日本で質量とも屈指の大学図書館としてその機能を果たしてきたが、他の大学のそれと較べて、誇ってよいことの1つは開館当初から一般公開を建前としてきた点である。この方針は変わることなく引き継がれているが、これによってその恩恵を受けた学者の1人に大塚金之助がいる。太平洋戦争の最中その思想の故をもって一橋大学(当時は東京商科大学と呼称)を追われた彼にとって、「図書館こそが命の綱」であった。けれども「私の勉強目標のためには、日本の首府、東京の図書館の状況は、先進諸国のそれにくらべて、問題にならないほど、不備、偏狭、不親切、非人間的、かつ役人的であった」。けれどもそのなかで「三田の慶應大学の図書館は、当時、日本におけるたった1つの公開大学図書館であって、役所風のくさみがなく、気もちがよかった」(『解放思想史の人々』 岩波書店刊)と述べている。昭和56年12月に竣工披露された図書館(新館)「三田メディアセンター」にもこの姿勢がそのまま盛り込まれていることをみるとき、よき伝統を備え、継承しているとしみじみ思う。