メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.56 一貫教育

慶應義塾の教育の特色は何かと問われた時、幼稚舎から大学・大学院まで、一貫教育の体制が昔から整っていることを挙げる場合が多い。この制度が、慶應義塾の教育体系の中で一応整備をみたのは、明治31年(1898)4月のことであった。安政5年の創立から数えて満40年の歳月を経た年での出来事であった。もっともそれ以前にも、幼稚舎、普通学科、大学部という課程は既に存していた。だがそれらは独自のカリキュラムをもち、入学卒業の時期も違えば、財政的にも独立会計を営み、慶應義塾という傘こそひとつだが、内実はバラバラの寄り合い所帯でしかなかった。

一方、明治23年に発足した大学部は、予期したほどの入学者が集まらず、一時は大学部廃止の声すら出るほどであった。幸い日清戦争の勝利によって、義塾を取り巻く周囲の情勢は、慶應義塾に学問教育の府としてのより一層の充実を求める期待に大きく傾きつつあった。その変化に伴い、塾内の大勢も、この際、過去の学制全般に抜本的な改革を加えるべきだとする主張が高まっていた。後の塾長林毅陸はその前後の消息を明治30年9月6日の日記でこう記している。

「午前広間にて教員会議あり、門野氏塾学制に関する新案に付、意見を問はる。議中快論、大に盛に満場珍らしく活気を帯ぶるを見たり。予等大に例の論調を以て意見を述ぶ。・・・・・・3時過散退す。広間にて塾の学風に関し痛快なる議論の盛なりしは、蓋し近来になかりし処なるべし。気運実に熟す。賀すべし」と。

その結果同月16日の評議員会は3つの重要な決定を行ったのである。即ちその第1は、慶應義塾の主力を大学部に置き、その卒業生の養成を目的とすること、第2に、バラバラであった学年暦を毎年5月から翌年4月までの1年間をもって1学年とすること、第3に幼稚舎6年、普通学科(普通部)5年・大学部5年を修業年限とする一貫教育制度の確立、の3つであった。そしてこの改革の実施を翌31年5月からとし、それに要する資金面での手当てとして、基本金募集に着手した結果、31年末には申込金額は22万7900円余の多きに達した。慶應義塾のもつ独特の学風も大学が4年間だけの通過儀礼ではなく、幼稚舎からは16年、普通部・中等部ならば10年、高校だと7年という在学期間をもつ一貫教育制度が、塾風の形成に果たした役割は決して小さいものではなかった筈である。