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[慶應義塾豆百科] No.55 『福澤諭吉全集』

福澤先生か亡くなったのは明治34年(1901)のことで、先年(1982)死去された名誉教授高橋誠一郎(享年97)を最後に、今日では先生の謦眩に接せられた人は居られなくなってしまったであろうことは残念である。だが他の大学に較べて、創立者の建学の理念が、義塾の場合いまなお色濃く残っていることの1つの理由は、福澤先生の数多い著作のすべてが完壁な全集として残っていることである。

福澤先生の『全集』がはじめて出版されたのは明治31年(1898)のことであった。そして先生自身、このことのために筆をとって書き上げたのが「全集緒言」である。『福翁自伝』が先生の人生行路の記録であるとすれば、この「全集緒言」は先生の文筆家としての履歴を示すものとして、きわめて貴重な証言でもある。そのなかで先生は、「日本が旧物破壊、新物輸入の大活劇を演じたるは即ち開国40年のことにして、其間の筋書きと為り台帳と為り、全国民をして自由改進の舞台に新様の舞を舞はしめたるもの多き中に就て、余が著訳書も亦自から其一部分を占めたりと云ふも敢て疚し(やま)しからず、余の放言して憚からざる所なり。左れば其筋書台帳を彼れ是れ寄集めて之を後世に保存するは、近世文明の淵源由来を知るに於て自から利益なきに非ず、歴史上の必要と云ふも過言に非ざる可し」と述べているが、『福澤全集』のもつ意義を端的に語ったものといえる。

その後、大正14、15年に全10巻よりなる『福澤全集』が国民図書株式会社より出版されたがそれらの全集は、先生の全著書を網羅したとはいい難く、またその編纂校訂にも、多くの憾みを残したものであった。そのため『福澤諭吉傳』の著者石河幹明は従来の『全集』に漏れた著作を余さず収録することを意図して『続福澤全集』全7巻を編み、昭和8、9年これを岩波書店から出版したのであった。ところが戦後に至り、福澤宗家から夥しい量の福澤新資料が発見されたのである。

そこで定本たるべき『福澤諭吉全集』の刊行は、義塾社中の大きな課題となった。昭和33年に迎えた義塾創立100年は全集の刊行を記念事業に加え、監修小泉信三、編集富田正文・土橋俊一のスタッフでこの編纂刊行のことを企て、前後13年の歳月を費やして昭和39年、全21巻(再版の際、別巻1冊を加える)の『福澤諭吉全集』の完成(岩波書店刊)をみたのであった。わが国の個人全集としては最も完壁なものといってもよく、富田はこの全集の編纂校訂注解の功により、昭和40年日本学士院賞を受けたことも附言しておかねばなるまい。