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[慶應義塾豆百科] No.48 大学部の始業式

慶應義塾が他の私立学校に先がけて専門教育の機関を設けたのは明治23年(1890)1月のことで、その時期は、前年に発布された憲法に基づき、第1回の総選挙が行われ、実質的な近代国家の誕生と時を同じくするものであった。

専門教育の機関として政府はすでに東京にただ1つの帝国大学を作って、専門1科の蘊奥をきわめた人材の育成を計っていたが、福澤先生の目論む大学教育は、これとは自から異なるものであった。

福澤先生の学問に対する姿勢は、世間の動きに全く関心をはらわず、ただひたすら一身の生計をも顧みず学問に専念する俗に言う専門馬鹿タイプの学者を好まず、これは「飯を喰ふ字引」に等しく、国のためには無用の長物と極めつけて、全く認めていない。

この過激な文言は実は『学問のすゝめ』(2編)に見られるものであって、明治初年の若者に強く勧めた学問の内容とは、難解な書を読み独り満足することを言うのではなく、物理学に基礎を置いた近代の自然科学から始め、人文科学・社会科学に進む西欧文明を形成した、文明の精神を学ぶことであった。近代国家の建設に必要なものは、文明の外形、すなわち単なる法律や機械技術を習得することではなく、それを形成するに至る内なる文明を会得することであり、それ無しに国の独立を保つことはできない。その意味で学問はあくまでも手段であり、目的ではない。学生に対し読書に耽るな、学問に凝ってはいけないと諭し、「書に耽るも酒色に耽るも其罪は同じ」とまで言い(明治6年7月20日付、中上川彦次郎宛書翰)、さらに学問を社会に還元活用して一身一家の生計を豊かにし、隨って国を富ますものでなければ「学問も亦一種の遊芸」に等しいと言い切っている(明治19年9月29日『時事新報』社説)。

この学問観は大学部の始業式(慶應義塾で実施された実質的な入学式の嚆矢)における福澤先生の演説においても端的に現れており、「学問に凝る勿れの一義は、此大学部に於ても老生の宿説を渝(か)へず。大学の学問も亦是れ一芸」であるから、大学部を卒業したらその事を深く内に蔵めて誇示せず、外に向かっては活発に世務に当り、天下無数の俗人と雑居して俗事を行いながら、「自然に其俗をして正に帰せしめ」て、慶應義塾の学問の特色を世間一般におし拡めることを希望している。

 (注)大学部開設100年記念式典は、平成2年9月29日、日吉記念館で挙行された。