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[慶應義塾豆百科] No.42 『時事新報』の創刊

創刊当初の時事新報
『時事新報』が創刊されたのは明治15年(1882)3月1日のことであった。ここで創刊の経緯についてその由来に少しく触れてみよう。

明治13年の暮、福澤先生は求められて大隈重信、伊藤博文、井上馨の3人と大隈の自邸で秘かに会合をもった。要件は国民への情報伝達の媒体に、政府自身が「公報のような官報のような新聞紙」を発行したいが、その編集を先生に引き受けてはもらえないかという依頼であった。先生は種々考慮の末一度は断ろうとしたが、井上から実は政府に国会開設の意のあること、新聞の発行もその布石であることを明かされ、協力を約束したのであった。だがこの計画は、14年10月、意外な事件の勃発によって、挫折を余儀なくされるに至った。所謂14年の政変がそれである。

いまこの政変について語る紙幅はないが、ただ「公布日誌」発行のために整えられた準備が、『時事新報』の創刊につながったことはたしかである。しかも当時の新聞が、多少とも政党色を帯び、世に政党機関紙時代とよばれたなかで、『時事新報』のみが創刊当初から編集の主眼を不偏不党においたのは、新聞史上画期的なことであった。それだけに検閲上の圧迫や、経済上の困難が伴った。幸い中上川彦次郎、牛場卓蔵、津田純一、やや遅れて本山彦一、伊藤欽亮、石河幹明、北川礼弼など、福澤門下の俊才が続々とこの仕事を援け、また従来の政党臭のある新聞に反発を覚えていた一般読者から、好感をもって迎えられたことも手伝い、僅か1500部余りの発行部数で発足した『時事新報』は、2年後の17年2月1日付で米国留学中の2人の子供に送った書翰では「時事新報は府下第一等の新聞に相成」「全国商況の不景気」の中で、5000余部の紙数を数えるまでに成長したと伝えている。同時に『時事新報』が内容的に「日本一の新聞」といわれるまでの高い評価を得たのは、先生が言論の自由と共にその責任を強く訴えたことによる。それは苟も他人を評するときは、「自分と其人と両々相対して直接に語られるやうな事に限りて、其以外に逸し」てはならぬこと、新聞にどんな劇論を書こうと自由だが、「扨その相手の人に面会したとき、自分の良心に愧ぢて率直に陳べることの叶はぬ事を書いて居ながら、遠方から知らぬ風をして、恰も逃げて廻はるやうなもの」を先生は「蔭弁慶の筆」と名づけ、言論の自由の主張には、それなりの責任の伴うことを教えられたのである。