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[慶應義塾豆百科] No.41 留学生受け入れのはじめ

神戸寅次郎
最近は教育界も国際交流が盛んで、日本から数多くの研究者・学生が海外に留学していて、昨今は頭脳流出の弊が叫ばれるほどである。しかし一方では、外国からわが国に渡来して研究調査に従っている人も、年々その数を増していることを見逃してはならない。

義塾においても、戦後早い時期から留学生を受け入れていて、昭和40年代から50年代前半にかけては、学部・大学院の正規留学生は80名を数えるにいたった。最近は円高傾向にも拘らず留学生の数は増加の一途をたどり、平成7年5月国際センターで実施した調査によると、正規留学生、聴講生合わせて、学部174名、大学院生368名、1年間の日本語研修課程の在籍者165名合計707名で、国籍別では韓国、中国、台湾が圧倒的に多い。アジアに位置する日本としては国際的な相互理解を深めるためにも、この傾向は益々助長されるべきであろう。

ところで、慶應義塾が海外から留学生を受け入れたのは明治14年(1881)のことであった。この年朝鮮政府は当面する国際情勢に対応し、新知識を吸収するため、日本に紳士遊覧団を派遣した。その一行中比較的年少の兪吉濬、柳定秀の2名は、日本国内の視察見学の終わった後、そのまま日本に留まり慶應義塾に入学した。これがそもそもの始まりで、そのことを福澤先生は書翰の中で、「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察のため渡来、其中壮年2名本塾へ入社いたし、2名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。(中略)朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るゝの発端、実に奇遇と可申」(明治14年6月17日付、小泉信吉・日原昌造宛)と書いている。

この朝鮮人留学生2名の受け入れは、書翰にあるように朝鮮国にとって最初の海外派遣留学生であると同時に、義塾にとっても初めての留学生受け入れであった。さらに言えば、これは単に慶應義塾に留まらず、日本にとっても最初の外国人留学生の受け入れであったのである。(阿部洋「福澤諭吉と朝鮮留学生」『福澤諭吉年鑑』2)。

留学生の1人兪吉濬は帰国後韓国最初の新聞『漢城旬報』を発行したり、政界、経済界での活躍がめざましく、大いに祖国の近代化と民衆の啓蒙に努めたことで知られている。慶應義塾はその後も、明治16年には60余名、28年には130名の朝鮮政府の委託留学生を受け入れ、朝鮮語学校を開設してこれを迎えた。