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[慶應義塾豆百科] No.21 慶應義塾出版局

大学出版部、通称ユニバーシティ・プレスとよばれるものの起源は、遠く15世紀に、当時の新しい活版印刷の技術を用い、英国オックスフォード大学内で「聖ジェロームの使徒信条」を刊行したのが最初だといわれている。西暦1478年のことであった。

ところでわが国における大学出版部の歴史は、明治5年(1872年)福澤先生によって三田の構内に設けられた慶應義塾出版局をもって、その嚆矢としている。先生が『西洋事情』の刊行によって、啓蒙思想家としての名声を不動のものとしたことは周知の事実だが、同時に先生は当時における出版物の流通過程に関心をもち、それまで「すべて書林の引受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本(おおもと)の著訳書はあてがいぷちを授けられるというのが年来の習慣」(『福翁自伝』)であることに疑問をもち、著者自らが出版業者になり、従来の書林はその配本売り捌(さば)きに当たるという、新たな流通機構を考案したのである。そのため明治2年には「福澤屋諭吉」の屋号で自らも書物問屋組合に加入し、大量の用紙を即金で買い付け、版摺りの職人の手当など、着々と準備を進め、その結果誕生したのが、前記の慶應義塾出版局であった。それは大学出版部としての機能とともに、塾の学生や教員たちの「商売の稽古」の場であり、『帳合(ちょうあい)之法』(簿記のこと)の実習の場でもあった。明治6年7月20日付で中上川彦次郎に送った福澤書翰の一節にはこう記されている。「出版局も随分盛なり。塾中教員の人も追々プラクチカルライフに志し、行々(ゆくゆく)は出版局へ入る人も出来可申(できもうすべく)、海老名(えびな)君、吉村(よしむら)君抔(など)も昨今半信半疑、出版局へ一心、仕官へ一心、スクールマーストルへ一心、とつおひつ思案最中なり。小生は断然商売人たる事を勧め、先づ稽古の為め出版局へ入るべしと説得いたし居候。今頃ろ官員ダノ披雇(やとわれ)教師ダノとて、1年の所得5、6百のメクサレ金を何に用る哉(や)。若(し)かず、商売の稽古して活計の目途(もくと)を様々に用意せんには」と。たしかに当時の出版局は、スタッフ10数人、職工200余人を擁する最大手の出版社で、年間7万円もの純益をあげ、出版点数も明治12年の時点で実に100点近い実績をもっていたと『百年史』は伝えている。ただこの出版局が母体となって明治15年3月からは『時事新報』を発行することとなったため、その本来の業務も明治17年には時事新報社に継承されてしまったのである。