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[慶應義塾豆百科] No.20 学業勤惰表

当時は、このような形で塾生の等級、成績、出欠が公開された
慶應義塾には学業勤惰表という古記録が遺されている。これは今の学生諸君に判りやすく言うと、在籍中の全塾生の出欠状況と学業成績を一覧表にしたもので、明治4年4月から同30年まで、その間に91種類の発行が確認されている。

この資料が発行される切っ掛けは、明治4年4月に慶應義塾が芝新銭座から三田へ塾舎を移し、施設の面では30倍の土地を所有するようになり、規則の面でも『慶應義塾社中之約束』を発行して、カリキュラムを刷新した、そういったすべてが新しく出発することを期して出されたものである。

右の『社中之約束』によると、教授方は毎日生徒の出欠を表に記しておき、月末にはこれを塾監局に提出し、塾監局はこれをまとめ、さらに学業成績の評価をも追加し、はじめは毎月、後には年に3回印刷発行したものという。この勤惰表は1 冊ずつ生徒に配付され、それ以上欲しいものは、所定の代金を払えば幾部でも入手できたから、当時の塾生は全塾生の学業成績や席順を互いに知っていたわけである。

学業成績を公開するという風習がいつ頃から無くなったか、よく判らないが、昔(と言っても明治時代)はむしろ当然のごとく公開されており、明治時代の学校案内(明治10年1月調査の『玉藻学校一覧表』)には在学生の成績表が付録としてつけられているものもあり(東京女子大学名倉英三郎名誉教授の教示)、また、明治13年にオーストラリアのメルボルンで開かれた博覧会に、文部省から慶應義塾と他の2校に出品を求めた依頼状が東京都公文書館に残されており、それには何んと、『慶應義塾社中之約束』と『慶應義塾勤惰表』と書いてある。この資料が果たして出陳されたか否かは不明であるが、実際に出品していれば、当時の塾生の成績は国内はおろか、国外にまで公開されたことになる。

就職のためにAの数の多寡に一喜一憂する昨今の塾生諸君からみると、およそ信じられないような習慣であろうが、同じ寄宿舎に寝起きし、同じ釜の飯を食い、四六時中行動を共にし、出欠も成績もすべて知り尽くしている間柄。これが表も裏もない本当の友達付き合いというものであろう。明治前半期に在塾した人達に、余り小さな事にはこだわらず、伸び伸びと成長して、明治末期から大正、昭和初期にかけて社会のそれぞれの分野で新生面を切り拓いて行った人の多いのも、或はこんなところに原因があるのかもしれない。