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[慶應義塾豆百科] No.2 旧居と宅跡

福澤旧居(大分県中津市)
大分県中津市留守居町にある福沢先生の旧宅が、3年がかりで解体修理され旧来の姿に復元されて、平成元年その工事を終えた。旧来というのは、従来の建物は裏庭に面した台所が明治期の建増しであることが 判り、それを削って旧に戻したという意味である。

これまでの建物は大正9年に修理がなされてから多くの星霜を経て、雨漏りや白蟻の被害等が著しく、本格的な修理を必要としていた。そこで今回文化庁の補助をえて全面的な解体修理が施された訳である。その時、屋根裏の束に「享和3年」(1803)と墨書されているのが発見され、これはこの建物の建築年と推定されている。

ところでこの旧宅は敷地約115坪(380平方メートル)に建坪31坪(102平方メートル)の本宅と2階建の土蔵4.5坪(15平方メートル)とが建っていて、福沢家のような下士の家屋としてはいささか広すぎるのではないかとの指摘があり、かつて史跡としての国指定が見送られたことがあった(高橋誠一郎著『随筆慶應義塾』慶應義塾大学出版会刊)。

その後、福沢家から先生自筆の住宅間取図が発見され、それは先生の生後18カ月、天保7年(1836)秋、突然の父の死去により母子6名が大阪から中津に引き揚げてから15年間、つつましく住んでいたのはその図面の家であって、先生の17歳、嘉永三3年(1850)ごろ、筋向いの母親の実家、橋本家を買い取り移り住んだことがわかって、旧宅は昭和46年に国指定の史跡となったのである。その時、文化財保護委員会の付けた名称が「福澤諭吉旧居」である。

図面に見られる古い方の建物は現存せず、現在は「福澤諭吉旧居」の南側の駐車場の脇に、石を並べて「福澤諭吉宅跡」としてその間取りが示してある。敷地はわずかに37坪余、部屋は八畳一間に三畳三間という手狭さであり、「旧居」の方の九畳一間、六畳二間、四畳半一間に四畳の納戸という間取りに比べると、その小ささがわかるし、それが13石2人扶持相当の家屋敷だったのであろう。

『福翁自伝』に出てくる中津時代のエピソードで、母親が女浮浪者からとったシラミを石でつ ぶさせられたり、白昼堂々頬かぶりもせず酒を買いに行ったのは「宅跡」時代であり、またいとこの増田宋太郎に生命をねらわれたり、日本でおそらく最初の一夫一婦論を唱え、「人倫の大本は夫婦」にあると説いた「中津留別の書」が書かれたのは、「旧居」でのことであった。