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[慶應義塾豆百科] No.3 修復なった適塾

適塾
昭和55年7月29日から8月3日にかけて、東京日本橋の三越本店で「緒方洪庵と適塾展」が開かれた。この展覧会は大阪北浜3丁目にある適塾が、文化庁の手で約4年の歳月をかけて修復されたのと、その周辺一帯の土地が、新たに史跡公園化されたのを記念したものであった。適塾はいうまでもなく、幕末における蘭学研究の第一人者として知られた緒方洪庵によって開かれた私塾である。彼が大阪瓦(かわら)町に蘭学塾を開いたのは天保9年(1838)であったが、過書(かいしょ)町の現在地に居を移したのは、それから5年後の天保14年のことである。延建坪にして120坪(約400平方メートル)あまりの小さな塾だが、「適塾」という名は洪庵の号適々斎から取ったものである。その由来は、荘子の太宗師篇にある「人の適を適として、自ら其適を適とせざる者」という句によっている。

洪庵は江戸の杉田成卿と並んで当時蘭学の二大家と仰がれた学者だが、彼の名をより高めたのは教育者としてのそれであった。即ちその門下からは、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民等の英俊を出したが、そのなかで福澤諭吉を生み育てたことの意義はやはり大きい。先生が適塾に学んだのは安政2年(1855)のことで、「入門帳」には「3月9日入門」とある。爾来、安政5年10月、江戸に出て慶應義塾を開くまでの満3年半の歳月をここで過ごした。数え年22歳から25歳にかけてで、先生の青春は適塾とともに終始したといってよい。事実『福翁自伝』で回顧されたその生涯のなかで、適塾での起居を語った描写が最も生彩に富んでいるのは、そこでの生活がいかに自由で充実したものであったかを示している。この適塾の中核となったのは師緒方洪庵である。洪庵の講義を聴くたびに、門下生たちは自己の無学無識をあらためて思い知らされたものであったが、先生にとっての忘れ難い感銘は、洪庵の情愛の深さであった。在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであった。このことは、福澤先生によって導かれた慶應義塾から、日本の近代化の推進にあれほど有為の人材が育った鍵も、先生の啓蒙思想家としての幅広い学識もさることながら、先生が若い弟子たちを愛する人であったことに由来するとの小泉信三の指摘(「姉弟」『この一年』文藝春秋刊)を実証するもので、その原体験はやはり適塾で得たものにほかならなかった。