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[慶應義塾豆百科] No.12 授業料

『福翁自伝』の中にく授業料の濫觴>と題する小見出しがあり、そこにこう記されている。

「さて、鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは、明治元年すなわち慶應4年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取って慶應義塾(けいおうぎじゅく)と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して、塾は次第に盛んになる。塾が盛んになって生徒が多くなれば、塾舎の取り締まりも必要になるからして、塾則のようなものを書いて、これも写本は手間が取れるというので、版本にして一冊ずつ生徒に渡し、ソレにはいろいろ箇条のある中に、生徒から毎月金を取るということも、慶應義塾で始めた新案である」と。

それまでの日本の私塾ではどうしていたかといえば、生徒が入学の際に束脩(そくしゅう)としてなにがしかの金子を納めるほか、盆暮の年に2度ぐらい、それぞれの生徒の分に応じてお金なり品物なりを熨斗(のし)をつけて先生に差し上げるというのが、一般の習慣であった。けれども福澤先生にしてみれば、折角それまでの洋学の一家塾に、慶應義塾という名を冠し、社中一同の共有のものであることを明らかにした以上、その経営も合理化すべきものとされたのである。「教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るになんの不都合がある、かまうことはないから公然価(あたい)を極(き)めて取るがよい」というのが先生の主張であった。そして「授業料」という名前も福澤先生の作った言葉であった。

この授業料とは何かということをめぐって、いつだったか国大協が学校の建物を使用することの確認科だとの説明をつけたことがあったが、ごく普通には「学校などで、授業の報酬として生徒の納める金」(広辞苑)と解釈するのが妥当であろう。ただそれにしても適正な授業料はどう算出すべきかとなると、問題は決して単純ではない。福澤先生の場合は、教師の毎月の生活費を金四両と定めて、それに教師の数を掛けたものを、在塾の生徒数で割るといった、ごく単純な計算で授業料を算出していたようである。明治2年8月版の『慶應義塾新議』によれば、「一、入社の式は金三両を払うべし 一、受教の費は毎月金二分づつ払うべし 一、盆と暮と金千匹づつ納むべし。但し金を納るに水引、のしを用ゆべからず」とある。但し書きがいかにも福澤先生らしいが、教師と生徒といっても、まだ半学半教の時代のことであった。