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[慶應義塾豆百科] No.13 三田移転

三田の表門(旧島原藩の中屋敷黒門)
いま岩波書店刊行の『広辞苑』第4版で「三田」という言葉をひくと「①東京都港区の一地区。芝公園の南西に当たり、慶應義塾大学がある。」という説明とともに、「②慶應義塾大学の俗称」とある。それほどこの言葉は、慶應義塾の代名詞として離れ難いものになっている。塾員の集いは各種各様の三田会であり、塾生の秋の文化祭は三田祭である。ところで本塾が三田の現在地に移転したのは明治4年のことであった。この発端は明治3年に福澤先生が発疹チフスに罹ったことにある。幸い命には事なきを得たが、慶應4年に鉄砲洲から折角移った新銭座の土地ではあったが、実際に住んでみると「何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたい」と考えるようになった。そこで手分けして適当な場所を物色した末、「三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望(ちょうぼう)もよし、塾には適当だと衆論一決はしたけれども、此方(こっち)の説が決したばかりで、その屋敷は他人の屋敷であるから、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地(じょうち)を命じて、改めて福澤に貸し渡すという趣向」(『福翁自伝』)を思いついたのであった。たまたま明治新政府の発足に伴いそれまで諸国の大名が持っていた上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つの内一つを残してあとは上地させる旨の取決めがなされたばかりであった。しかも好都合なことに東京府から先生に対し、従来の巡邏(じゅんら)制度を改革し、西洋風のポリスの組織に改めるについて、諸外国の制度を調査してほしいとの依頼があったので、口にしないまでも一種の交換条件のような形で、三田の島原藩邸借用の件を依頼するなど、あらゆる手段を尽くしてその実現を図ったのであった。その結果明治3年11月、東京府から福澤先生に対して、「其方儀近来広く洋書を訳述し許多の生徒を引立稗益不少候に付、出格の訳を以三田2丁目島原藩上げ邸1万1856坪、願の通拝借の儀御許容相成候」云々との令書が正式におりたのである。

この借用までの過程において、岩倉具視が大きな役割を果たしていることも、明治3年10月22日付の阿部泰蔵宛の福澤書翰で明らかであるが、それによると先生が岩倉を訪ね委曲を尽くして願いの趣を述べたところ、「岩様の御声掛り、猛虎一声衆議忽可決」とある。その意味では三田移転の恩人は岩倉具視だといえるかも知れない。