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[ステンドグラス] 福澤諭吉遺品展

1997/05/01 (「塾」1997年MAY(No.205)掲載)
慶應義塾には、創立者福澤諭吉の数々の遺品が貴重な資料として大切に保管されています。
ここでは、その中からいくつかを紹介します。福澤の遺した言葉や逸話とともに、在りし日の姿を偲んでください。

海外渡航

<1>
右:西航手帳
この手帳は、遣欧使節としてパリ滞在中に購入したもの。ヨーロッパ巡歴で見聞したことが細かく記録さ れており、資料としても大変貴重な遺品の一つです。

左:アメリカおよび東洋民族誌学会員証
福澤との親交が深く、後にパリ東洋語学校日本語学科初代教授となったフランス人レオン・ド・ニの推薦で 加入した学会。会員証には福澤自身のサインのほかに、ロニのサインも見ることができます。ちなみに福澤は本学会で人種の見本として写真に撮られています。
<2>双眼鏡(遠眼鏡)
福澤は、生前アメリカへ2度渡りました。この双眼鏡は1867年(慶應3)年の2度目の渡米時に購入したといわれています。双眼鏡は当時ではたいへんな贅沢品であり、この遺品もボディは象牙製。福澤の逝去後、四女タキが大切に保管し、その娘時代、その子息木内孝氏へと伝わったもので、今でも十分使用することができます。
<3>英清辞書
1年間のヨーロッパ巡歴の際にロンドンで購入(5ポンド)した英語・中国語対訳辞典。福澤が幕府の使節随員としてヨーロッパヘ派遣されたのは1861(文久元)年、28歳の時のことです。

日課

<1>杖
「身体の発育こそ大切なれ」———どのような事情があっても、人間はまず身体の健康が第一であり、「先ず獣身をなして後、人身を養え」と常日ごろから説いていた 福澤は、自身の健康管理も徹底していました。晩年は毎朝1里半の散歩を欠かしたことがなく、遺品の中にそのとき使った愛用の杖が数本残されています。
<2>居合刀
福澤は散歩だけでなく、毎日1時間ほど居合の練習や米つきを健康維持のために続けていました。これはそのときの刀。福澤の居合は立身新流といい、少年の頃に中津藩居合術師範中村庄兵衛に習ったもので、後年その手腕は達人の域に達していたと伝えられています。
<3>臼と杵
身体の健康を保つために励行していた米つきに使用した臼と杵。ついた米の大変は家族ではなく知り合いに配っていたというこです。

日常/趣味

<1>筆と硯
本誌の題字『塾』も福澤の筆によるものです。
<2>煙草入れ
たいへんな煙草好きで知られていた福澤諭吉。生前愛用の煙草入れや煙草盆がいくつか遺されています。
<3>眼鏡
<4>将棋盤
福澤は将棋が好きで、棋譜も残っています。ある目、友人宅に将棋を指しに行ったところ、駒が1枚足りませんでした。すると、福澤は木片を削り始め、墨で文字を入れて書き駒を作り、友人と将棋を指し始めた一との逸話が伝えられています。

家族

<1>乳母車
2度目のアメリカ渡航の際のみやげの一つで、日本に持ち込まれた最初の乳母車。明治時代に発明された人力車は、この乳母車の形をヒントに作られたものとされています。
<2>捨次郎が乗っている乳母草の写真
乳母車に乗っているのは、福澤の次男・捨次郎、もう一人は長男の一太郎ではないかといわれています。