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[慶應義塾豆百科] No.9 自我作古

「自我作古」という用語は義塾では比較的使用頻度の高い言葉で、草創期の先進塾生たちが、西洋文明をいち早くとりいれて、日本の近代化に貢献せんとしたその雄々しき気概を示す一種のモットーの如くに使われている。しかし、この用語は今日、世間一般ではほとんど使用されていない。

これは「我より古(いにしえ)を作(な)す」と訓み、中国の『宋史』に見られる用語であるが、これから自分がなさんとする事は前人未到の新しい分野であるけれども、予想される困難や試練に耐えて開拓に当たるという、勇気と使命感を示した言葉であろう。

義塾ではこの用語が初めて使われたのは、慶應4年4月に起草された『慶應義塾之記』の中であって、そこではそれより90年以前の前野良澤・杉田玄白・中川淳庵らによるオランダ医学書の翻訳事業を「只管(ひたすら)自我作古の業にのみ心を委ね」、日夜寝食を忘れて蘭学と呼ばれる新しい学問を興したものであると、その努力を讃える個所に使われている。

ところで『慶應義塾之記』は、丁度そのころ福澤先生がひどく感激してその出版に力をかした、杉田玄白の『蘭学事始』に影響をうけており、同書下巻で玄白が蘭語の術語を何と翻訳するか非常に苦労したが、「彼是考へ合すれば、迚(とて)も我より古をなすことなれば」として、独自の訳語を作ったという部分に使われているから、慶應義塾も蘭学ではなく英学で、新文明を築いて行くのだと意気込みを表す用語として、『蘭学事始』で使われた言葉を使ったものであろう。

さてこの「自我作古」はその後義塾では絶えて使われなかった。しかしそれから時を経ること80年。昭和14年7月8日、時の塾長小泉信三が新設された藤原工業大学の入学式において「我より古を作す」と題して訓辞したのが、この用語の復活といえよう。

塾員藤原銀次郎が私財を投じて創設した工業大学の新入生198名に対する訓辞として、この用語はまさに適切であった。塾長として工大の学長を兼ねた小泉は、「この大学の歴史は諸君をもって始まる」と言って、彼らにのみ許された特権を強調して、新入生を励ましたのであった。

その後この工大は義塾の工学部(昭和19年)となり、昭和56年には理工学部に改組され、平成元年に創立50年を迎えた。