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[慶應義塾豆百科] No.83 環境保全のさきがけ

競秀峰(大分県中津市)
慶應義塾が狭隘をかこつ三田から新校地を求めて日吉の土地に、大学予科以下の諸学校の移転を決めたのは、昭和5年のことだった。日吉台は多摩川台地の末端に位置する独立の高台で、武蔵野の悌を遺す山林の趣に富み、土地高燥にして眺望がきき、東京近郊でまれにみる景勝の地であった。

この日吉台を開発して校地を整備するに当り、担当理事の槇智雄は構内の風致については格別の考慮を払い、道路の敷設や運動施設の建設に当っては周囲の環境との調和を重視し、車道と歩道の間に並木道を造ったり、植樹される銀杏・欅・ヒマラヤ杉なども、1本1本自ら立ち会って選定したと伝えられている。その成果は半世紀以上経た今日見事に実っていると言えよう。

さらに校地整備のための土木工事が進むにつれ考古学的遺物の発見が相次いだため、ここで本格的な埋蔵文化財の調査が行われた。三田史学会による学術調査の結果、数多くの弥生式竪穴住居址や古墳が発見され、日吉地区は古代人の一大集落であったことが確認された。直ちに発掘調査が行われ鏡・竹櫛・玉類等多数の出土品があり、それらは一括して1700百余点が重要文化財に指定された。また義塾の所蔵する国宝「秋草文壺」もこの近辺で発見されたものである。住居址の多くは校舎建築のため破壊されてしまったので、完全な形を持つ住居址一基をコンクリートで固定し、住居址保存の先鞭をつけた。これはわが国で最初の試みとして学会の注目を集めたものである。

このように環境を保存し周辺との調和を考慮しつつ学術の発展に寄与しようとの方針は、福澤先生が早くも範を垂れておられ、先生が明治27年(1894)郷里中津に帰省された折、近郊の渓谷で、かつて天下無双の絶景であると頼山陽がめでた耶馬渓を訪れた。その時最も美しいとされる競秀峰が売りに出されていることを聞き、この絶景が心ない者の手に落ち樹木が伐採されて風景を損じてはならないと、「此方にては之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書翰)ことではあるが、名勝保存のため一帯の土地120アール(1万2000平方メートル)程買い取られたことがある。

このことは自然保護、環境保全を叫ぶナショナルトラスト運動の日本におけるおそらく第1号ではないだろうか。菊池寛の『恩讐の彼方』で広く紹介された青の洞門は、この競秀峰の山腹を僧禪海がノミでうがったものである。