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[慶應義塾豆百科] No.62 塾葬

福澤諭吉の柩を送る塾生たち
明治34年2月3日は福澤先生の命日である。病気は脳出血であった。元来福澤は頑健なたちで、明治14年に明治生命の生命保険に加入しているが、その時の診察医印東玄得の記録によれば、身長173.5センチ、体重70.25キロ、肺活量5.159リットルとあり、当時の日本人の標準体位を大きく上回るもので、印東も「因テ之ヲ案ズルニ身体ノ各器質官能頗ル強健ナルヲ以テ最上ノ寿命ヲ完フスルヲ得ルモノト診定ス」としている。もっとも父百助については福澤自身その申込書のなかで「44年ニシテ卒中ニテ死去セリ」と記しており、自身も「幼少ノ時ヨリ酒ヲ好ミ壮年ニ至テ鯨飲、三十二三歳ノ頃ヨリ漸ク節シ近来ハ大ニ量ヲ減ズ」とあるように、脳出血症についてはある程度警戒していたことは事実である。殊に明治31年9月に脳出血症に罹り、幸い回復して以後は医師の指示を忠実に守っていた甲斐もなく、34年1月25日に再発、2月3日午後10時50分、遂に永眠した。享年数え年で68。

葬儀の日は2月8日としたが、それを慶應義塾の塾葬とすべきかどうかについて議論がわかれた。福澤先生の義塾に対する功績を考えれば当然塾葬とすべきであるが、それをはたして喜ばれるかといえば、先生の平素の考え方からして疑問だとする意見である。元来先生はその生前から慶應義塾は義塾社中のものであって、福澤の慶應義塾といわれるのを極力さけておられたのは事実である。たとえば明治16年3月19日付で笹原文平に送った福澤先生の書翰にはこう述べている。

「老生の志願を申せば、此塾を寺院の如き姿に致し、方今は老生住職なれども、迚も豚児へ譲るべからざるは明白なるに付、生前に後住の者を撰で之れに渡し、後住は又第三者ヘ譲り、其維持の法は同志者即ち檀家のカに依頼して百年の後にも傅へ候得ば此上もなき仕合なり。既に唯今屋敷地の地券も小生の名義なれども、誓て倅(せがれ)は不致覚悟にて、家族竝に朋友共へ毎度話置候事に御座侯。」

とある。こうした先生の心事を尊重するとき、葬儀はあくまで福澤家の私事として執り行うべきもので、このために多少でも義塾の金を費やすべきではないとの結論に達したのであった。爾来義塾では、今日まで塾葬は遂に一度も執行されていない。