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[慶應義塾豆百科] No.4 慶應義塾の起源

慶應義塾発祥の地記念碑
慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来し、場所は江戸の築地鉄砲洲にあった。現在の東京都中央区明石町の一部で、いま聖路加国際病院のあるあたりがちょうどその位置にあたるといわれ、そこには昭和33年(1958)4月23日、義塾創立百年記念事業の一つとして、「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられた。

開塾のいわれは、新版『福翁自伝』慶應義塾大学出版会刊(以降『自伝』中よりの引用は同書による)に語っている先生自身のことばによると、 

「同年江戸の奥平の邸から、ご用があるから来いといって、わたしを呼びに来た。それは江戸の邸に岡見彦曹(ひこぞう)という蘭学好きの人があって、この人はりっぱな身分のある上士族で、どうかして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたいというので、さまざまに周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。ところで奥平家がわたしをその教師に使うので、その前、松木弘安(こうあん)、杉亨二(こうじ)というような学者を雇うていたようなわけで、わたしが大阪にいるということがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べということになって、ソレでわたしを呼びに来たので」

先生はこれに応じて出府し、上記の場所で蘭学の教授をはじめるようになったのであった。

時に先生は数え年25歳、大阪では緒方洪庵の適塾で塾長をつとめており、出府にあたっては、同窓のなかから同行を希望した岡本周吉(のち岡本節蔵・古川節蔵・古川正雄と改姓名)を伴い、それにもう1人これもたまたま江戸へ下るという同窓の原田磊蔵(らいぞう)と三人連れで、道中とどこおりなく、10月下旬の小春の時節に1日の川止めなどという災難にもあわないで江戸に入ったと上記『自伝』にある。

したがって、開塾の時期はいずれ先生が江戸に着いてすぐのこととみて10月下旬か11月上旬のころと考えられていた(『慶應義塾百年史』上巻以下『百年史』と略記)が、近年安政5年11月22日付の宛名不明の福澤書翰が発見され「10月中旬着府」とあって、開塾は安政5年10月中旬(西暦1858年11月15日~25日)と確認されたのである。

ところでその場所は、現在の中央区明石町の聖路加国際病院のあるあたりで、その前のロータリーに発祥の地記念碑が建っている。これは義塾の創立百年記念事業の一環として造られたもので、昭和33年4月23日義塾の開校記念日にその除幕式が行われた。そしてその場所は、奇しくも明和8年(1771)前野良澤、杉田玄白、中川淳庵らが集まって、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を苦労しながら解読した処(時代の差こそあれ同じ中津藩奥平家中屋敷内)でもある。義塾の記念碑とともに日本洋学発祥の地記念碑が昭和34年に日本医史学会・日本医学会・日本医師会の連名により、そこに建てられているのはそのためである。設計はいずれも芸術院会員谷口吉郎の意匠になるものである。なお、昭和57年2月3日、中央区の道路改修に伴い、場所を若干移したこともあって、従来のこの「蘭学の泉はここに」の記念碑と義塾発祥の地記念碑は合わせて「日本近代文化事始の地」記念碑として、あらためてその改装披露が行われた。