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[慶應義塾豆百科] No.35 万來舎

万來舎が塾内に設けられたのは明治9年11月のことであった。その前年にできた三田演説館に隣接して建てられた木造平屋の建物で、教職員、塾生、卒業生たちのための一種の社交クラブであった。この万來舎のあり方については、同じ年の12月にその頃慶應義塾で刊行されていた啓蒙雑誌『家庭叢談』に載った「万來舎の記」と題する一文に明らかである。即ち、「舎(しゃ)を万來(ばんらい)と名(なづ)けたるは衆客(しゅうきゃく)の来遊(らいゆう)に備(そな)ふればなり。既に客と云えば主(あるじ)あるべきが、先ず来るの客を主とし、後れて来るの客を客とす。早く帰るの客は客にして、後れて留るの客は主(あるじ)なり。去るに送らず、来るに迎へず、議論なすべし談話妨げず、囲碁対棋読書作文唯客の好む所、危坐箕踞(きざききょ)共によし、扼腕拱手両(やくわんこうしゅふた)つながら問はず、来る者は拒まず、去る者は留めず、興あらば居(お)れ興尽(つ)きなば去れ、去て客尽くれば明朝の客来を待つ。嗚呼(ああ)世も亦此舎の如し。須(すべか)らく楽て其日を長ふせよ。穴賢(あなかしこ)々々」と。そして「万來舎建築の趣意右の如くなれば、江湖の諸君子貴賎貧富の別なく続々来舎して其楽みを洪(おお)ひにせよ」と書き添えている。なか なかの名文だが、筆者は福澤先生の生涯の補佐役であった小幡篤次郎である。万來舎という名称そのものは、千客万来という俗語から取ったもので、集会所が完成し、さてその名称をどうしようかという相談を、福澤先生を中心にしていたところ、偶まその席に居合わせた井上良一が、「むずかしい名よりは、宿屋や寄席などに千客万来と書いたものがあるから、それに因んだものにしてはどうだろう」と提案し、先生も「それは面白い、万來舎という名前にしよう」といわれて決まったと伝えられている。

元来福澤先生は、わが国社会の近代化のなかで、交際の持つ役割を高く評価した人であった。その著『学問のすゝめ』第9編で「政府何の由縁をもって法律を設くるや、悪人を防ぎ善人を保護しもって人間の交際を全からしめんがためなり。学者何の由縁をもって書を著述し人を教育するや、後進の智見を導きてもって人間の交際を保たんがためなり」とあるのは、その間の消息を語るもの
である。

建物そのものは、その後幾度か改築され場所も変ったが、「万來舎」という名前は昭和20年、戦災で建物が焼失するまで引き継がれてきた。