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[慶應義塾豆百科] No.34 慶應義塾教育の本旨

福澤先生が藩命により大阪の緒方塾から江戸へ出て来て、築地の中津藩邸の一隅に小家塾を開かれたのは、明治維新を遡ること10年、安政5年10月のことであった。当初は藩邸内の藩士たちにオランダ語を教えるのが先生に課せられた任務であったが、開塾の翌年開港されたばかりの横浜を見学し、そこで通用する外国語はそれまで苦心惨憺して習い覚えたオランダ語ではなく英語であることを知り、一時は落胆したが持前の根性で帰宅の翌日から英語の独学をはじめ、それから4、5年もすると、すっかり英学に転向して江戸でも高名な英学者となり、その塾も英語を学ぶ者の学塾として他藩にも知れわたるようになっていた。

ただ幕末期の塾は先生の身分が封建的な枠から脱することが出来なかったため、多くの制約を受けていたが、維新後はそれらの封建的身分や義務から自らを解放し、さらに志を同じくする者と共に近代的な教育機関を設けて、その学塾に仮に時の年号をとって「慶應義塾」と名付けたのである。

わが国初の近代教育を開始するに当たって、先生を初めとする同志の求めた学問は、ヨーロッパ18世紀の産業革命以後盛んとなる実証実験を重んじる自然科学に基礎をおくもので、それを義塾では実学(サイヤンス)とよんだ。空理空論をもてあそぶ古来の漢儒の学ではなく、物理学を基本とする合理的精神は、慶應義塾の学問の特色であり、カリキュラムの面でもいち早く数学を採り入れたり、明治初年から医学教育を始めたのも、その現われであった。

明治初年における義塾の学科課程は、草創期の故をもって多少ゆれているが、しかし学習の順序は厳然と守られていて、数学、物理学、化学に始まり、次いで歴史学、経済学、倫理学等に及ぶものであった。この考えは福澤先生が明治9年3月に書かれた「慶應義塾改革の議案」という文献に記されているものだが、これにより如何なる人物を養成しようとしたか、この文章の冒頭に、慶應義塾教育の本旨がみごとに記されている。即ち「人の上に立て人を治るの道を学ぶに非ず、又人の下に立て人に治めらるゝの道を学ぶに非ず、正に社会の中に居り躬(みず)から其身を保全して一個人の職分を勤め、以て社会の義務を尽さんとするものなれば、常に其精神を高尚の地位に安置せざる可らず」とある。これは明治33年に発表された「修身要領」にみる「独立自尊」の精神とまさに同一であって、慶應義塾の教育の目的は、官立学校のような官僚の養成でもなく、無気力な人民をつくることでもなく、独立の一個人として、職務を通して社会的使命を果たして社会の進展に寄与しうる人物の養成にある、というのである。