メインカラムの始まり

[慶應義塾豆百科] No.17 義塾社中

慶應義塾が慶應4年(改元して明治元年—1868)に現在の校名を定めた時、義塾はその宣言書ともいうべき『慶應義塾之記』を公にした。そして、その冒頭に「今ここに会社を立て義塾を創め」云々という文言が述べられ、当時の記録類にもたしかに「慶應義塾会社」、あるいは「慶應義塾同社」としるしたものがある。

もっとも、こんにち一般に呼ばれているような株式会社とか、合資会社、合名会社等のたぐいではもちろんない。そのころはまだ、この会社という言葉はいまのような意味の定着がなく、右にいう会社は、むしろ、一定の目的のために志を同じくするものたちが集まって組織する団体というほどの義で、いわばコーポレーションのことをさしたものといってよかろう。つまり、義塾はいかにも私学であるが、それは決して個人の一私有物だということではなく、すべては関係者一同の共有のものであり、しかも公共のためにこそつくすべきだという考えがそこにはっきり示されたのであった。

かくして、この会社に属するものはすべて社中と呼ばれる。同社というのも同様で、要するに関係者全員の謂なのである。福澤先生が当時、友人山口良蔵にあてた書翰(慶應4年4月10日付)のなかに、次のような文面がある。

僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、之を総称して一社中と名け、僕は社頭の職掌相勤、読書は勿論眠食の世話塵芥の始末まで周旋、其余の社中にも各々其職分あり。

また、明治4年(1871)に義塾が現在地の三田に居をさだめて制定した『慶應義塾社中之約束』というものがあって、そこにもこういう一文が見られる。

我義塾学問ノ法ハ博ク洋書ヲ読ミ、或ハ其文ヲ講シテ人二伝へ、或ハ之ヲ翻訳シテ世ニ示スノミニテ心ヲ以テ心二伝フルノ奥義アルニ非サレバ、人ノ才、不才二由リ、今日ハ人ニ学フモ明日ハ又却テ其人二教ルコトアリ、故二師弟ノ分ヲ定メス教ル者モ学フ者モ概シテコレヲ社中ト唱フルナリ。

もって、社中のなんたるかを知ることができよう。のみならず、社中はつねにそれぞれ分に応じて力をあわせ、絶えず義塾の維持経営に心をいたしてきた。慶應義塾の隆昌はまさしくそのような義塾社中の協力によるものといわなければならない。義塾の力強い伝統が厳としてそこに存するのである。