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[ステンドグラス] 慶應義塾草創時代の熱き弁舌がよみがえる 「演説」発祥の場所、「三田演説館」

2010/08/09 (「塾」2010年SUMMER(No.267)掲載)
三田演説館
口頭で意見を言う習慣を持たなかった日本に、初めて“演説”を持ちこんだのは福澤諭吉先生と三田演説会の人々である。その三田演説会の専用会堂として建てられた三田演説館は、わが国の演説の揺籃期を担ったゆりかご。明治初期の和洋折衷様式を今に伝える重要文化財である。

アメリカの会堂をモデルになまこ壁と洋風窓が溶け合った建物

なまこ壁
三田キャンパス内に建つ三田演説館は、日本最初の演説会堂である。1875(明治8)年に建てられた歴史的建造物であり、大正時代には東京府から史跡に指定され、1967(昭和42)年に国の重要文化財の指定を受けている。建築時は現在の図書館旧館と塾監局の中間あたりに位置しており、今は少々わかりづらいが正門左手の小高い丘(稲荷山)に移築されている。

大公孫樹(おおいちょう)の前から大学院棟の脇を通ると見えてくる演説館は、グレーの地に白い斜め格子が入っているなまこ壁のたたずまいが、緑の下草に映えて美しい。歴史的建造物として、同じく重要文化財の指定を受けている図書館旧館が持つ威厳に満ちた雰囲気とはやや異なる。和洋折衷の造りのためか、それとも、建物自体がやや小ぶりのせいなのか、三田演説館はものものしさよりもどことなく、愛らしさを感じさせる。

木造2階建て、寄棟造桟瓦葺屋根の擬洋風建築は、当時ニューヨーク駐在の副領事でのちに日銀総裁を務めた富田鉄之助から送られてきた、米国の種々の会堂の資料を参考にして設計された。移築や解体修復はあったものの、和風のなまこ壁や瓦屋根と、洋風の玄関ポーチや上下に開く窓が、135年の時の流れを経て違和感なく溶け合っている。

エントランスから館内に入ると正面に演壇があり、演壇後ろのまるみを帯びた白壁の中央には、和田英作の原画を松村菊麿が模写した、福澤先生の立像肖像画(写真右下)が掲げられている。また左右と後方には2階ギャラリーが設けられている。

スピーチは演説、ディベートは討論 訳して言葉を作ったのは福澤先生

趣のある演説館内
趣のある演説館内
冒頭に「日本最初の演説会堂」と記したが、そもそも日本で初めて演説を始めたのが、福澤先生と初期の塾生、塾員、教員たちなのだ。それ以前の日本には演説の習慣はなく、自分の意見を他に示し賛同を得るには、書面にしたためる方法しかなかったのである。

しかし、口頭で意見を伝えることができなければ、議会政治が成立しないばかりか、公平な裁判をすることも難しい。そこで義塾では、社会教育の一方法として演説を根付かせる活動を始めたのである。

英語のスピーチを演説、ディベートを弁論・討論と訳したのも、福澤先生である。1873(明治6)年夏から先生の自宅や他の教員宅で演説や討論の練習に励み、翌年には福澤先生、小幡篤次郎、中上川彦次郎、森下岩楠、小泉信吉ら14名で三田演説会を組織した。そして明治8年5月に、三田演説会の専用ホールとして開館されたのが、三田演説館なのである。つまり演説館は、わが国における演説と討論の揺籃期を担った、最初の唯一の舞台だったのである。

そう思いながらもう一度演説館内を見渡すと、演壇に立って熱弁をふるう慶應義塾草創期の人々の姿や、それを見守り、また文明開化を迎えたわが国の未来を先導する演説を行った福澤先生の姿を、生き生きと思い浮かべることができる。つめかけた当時の知識階級である聴衆は、演説に耳を澄ませたり、熱い拍手を送ったりしたことだろう。この場所は、演説という新しい方法で、独立自尊に代表される義塾の精神を育んだ、“ゆりかご”だったとも言える。

三田演説館で開催される「ウェーランド経済書講述記念講演会」

演説館の椅子
現在では、既に689回を数える三田演説会の会場として、また毎年5月15日(15日が土日祝に当たる場合は変更あり)に行われる「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」の会場として活用されている。

この講演会は、戊辰戦争さなかの1868(慶応4)年5月15日、上野において官軍と彰義隊が戦闘を繰り広げ、砲声が江戸市中に響きわたるなかで、福澤先生はまったく心を乱すことなく、芝新銭座の義塾において悠然と『ウェーランド経済書』の講義を行ったことに由来し、その記念日の5月15日に毎年開催されている。
本年の記念講演会 松崎欣一慶應義塾名誉教諭
本年の記念講演会 松崎欣一慶應義塾名誉教諭
今年は、5月14日に慶應義塾名誉教諭松崎欣一君による「『福翁自伝』の成り立ちについて-晩年の福澤諭吉-」の講演が行われた。

現在、三田演説館の収容人員は144席(当時は立席で400~500名だったといわれている)。福澤先生は「其規模こそ小なれ、日本開闢(かいびゃく)以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(『福澤全集緒言』)と言われたが、500年を待たずに重要文化財に指定され、義塾の歴史のみならず明治初期の歴史を語る建造物として、見学に訪れる人は多い。塾生、塾員にとっても、義塾の歴史にふれることのできる場所として、一度は訪れてみたい場所である。(※ただし館内は、上記の講演会等ごく限られた日にのみ見学できる)