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[ステンドグラス] 三田会の歴史

2002/03/01 (「塾」2002年EARLY SPRING(No.233)掲載)
慶應義塾を巣立った若者たちに対する福澤諭吉の熱い期待をその源流とし、
塾員同士の強い結束から自然発生的に生まれてきた「三田会」。
今回は、慶應義塾の歴史と伝続に大きな位置を占める「三田会」の成り立ちと現在に至るまでの歩みを概観してみる。

- 福澤諭吉の精神が塾員の強い絆を生んだ

 自ら設立した慶應義塾において実学を志し、社会の先導者となるべき人物の育成を図った福澤諭吉。福澤先生は、塾生への教育はもちろん、義塾を巣立った若者が社会の中でどのように成長していくか常に大きな関心を抱いていた。そして、卒業後も実学を身につけることができる場、すなわち書物からではなく、人と語り合ううちに互いに知識を交換し合うことができる社会教育の場を設けることを考えつかれた。まず、明治9(1876)年、三田山上に、塾生・塾員・教職員など、義塾社中すべてに開かれた社交の場として「萬來舎」を設置。そして、明治13(1880)年には、この試みを社中だけでなく広く一般社会にまで発展させて、東京・銀座に日本最古の社交機関「交詢社」を設立している。わが国の近代化の中で交際が果たす役割を高く評価していた福澤先生ならではの偉業であり、この人と人との「交際」の重視という考え方が、現在に至る塾員同士の強い結びつきにも息づいていると言えるだろう。

- 「三田会」の誕生から 「連合三田会」結成へ

 義塾における同窓会の始まりは、明治13年に湯島昌平館で行われたものと言われており、創立以来の新旧塾員およそ三百名の参加があったことが記録に残されている。その後も同窓会は不定期ながら開催され、同窓生の集まりを極めて大切にされた福澤先生は各地の同窓会に進んで出席された。
 明治34(1901)年2月、福澤先生逝去。いわば大黒柱を失った慶應義塾だが、今こそ力を一つにしてその偉業を盛り立てていこうという社中一同の気概と連帯感はますます強固なものとなっていく。同年4月13日、広尾の福澤別邸で行われた同窓会で「慶應義塾同窓会規約」が協議され、満場一致でこれを可決。以来、規約にのっとり、毎年春秋2回の同窓会を定期的に開催することになった。
 この同窓会とは別に、いわば塾員有志によって自然発生的に結成されたのが「三田会」である。「三田会」という呼称が使われたのは、翌明治35(1902)年1月、福澤先生ゆかりの「交詢社」で東京地域の有志が成したものが最初だとされている。同年3月には横浜三田会も発会。その後、国内はもちろん、海外各地に赴任する塾員同士でも活発に三田会が結成されるようになった。このこは、当時から塾員同士の結束・連帯がいかに強かったかを示している。
 昭和5(1930)年には、各地で結成された三田会の総数は100団体を数えるほどになっていた。前述の同窓会も全国に散らばる塾員全員の参加が不可能となっており、各地三田会と義塾との連絡を密にし、かつ相互の意志疎通を図る組織が望まれるようになっていた。同年、さっそく塾員有志によって「連合三田会」結成が協議され、11月に東京・丸の内東京會舘で「第1回連合三田会大」を開催。以来、東京會舘、帝国ホテル等を会場として、毎回、数百人の参加者を集めるなど隆盛を誇っていた。しかし、戦局の悪化により昭和19(1944)年にやむなく中断。戦後、昭和26(1951)年三田山上て「連合三田会」が復活した。
<1>明治38年春、福澤別邸での同窓会
<1>明治38年春、福澤別邸での同窓会
<2>昭和11年連合三田会、全員で乾杯
<2>昭和11年連合三田会、全員で乾杯
<3>昭和11年連合三田会大会
<3>昭和11年連合三田会大会

- 「慶應連合三田会」結成でますます広がる塾員の絆

 高度経済成長期の昭和38(1963)年には、新しい組織として「連合三田会」を再び結成(昭和42年、慶應連合三田会に改称)。年度三田会、地域三田会、職域三田会、その他各種の三田会などによって構成れる義塾同窓の大集団として現在に至っている。なお、慶應連合三田会は、昭和44(1969)年に、機関紙「三田ジャーナル」を創刊。また、平成11(1999)年にはホームページを開設し、塾員へのさまざまな情報提供の強化を図っている。
 平成13(2001)年10月の時点で慶應連合三田会に登録されているのは総数871団体。それぞれの三田会が総会、家族会、ボランティア活動、新入生歓迎会など独自に定例の会を設け、日本全国、世界各地に散らばる義塾社中の交流、結束をより活性化するために重要な働きをしている。平成7(1995)年1月の阪神・淡路大震災の際には、全国各地の三田会と慶應連合三田会より、被災した塾員に対する義援活動が行われ、「社中協力」の精神が現代もなお揺るぎないことを改めて感じさせてれた。
 塾員相互の連帯感の中で育まれてきた同窓・親睦組織「三田会」が、これほどの規模と結束を持った団体なり得たことは、慶應義塾の歴史の中でも誇るべきことの一つである。そして、各三田会の活発な活動状況は、「社中協力」とともに慶應義塾が掲げる「独立自尊」の精神をもっとよく体現しているものと言えるのかもしれない。
<1>昭和17年の第2回航空三田会
<1>昭和17年の第2回航空三田会
<2>シドニー三田会(年代不詳)
<2>シドニー三田会(年代不詳)
<3>大正11年会
<3>大正11年会
<4>昭和26年、三田山上で行われた連合三田会大会
<4>昭和26年、三田山上で行われた連合三田会大会