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[ステンドグラス] 義塾の美学美術史学研究の始まり〜鷗外の「審美学」と澤木四方吉の「西洋美術史」〜

2015/05/25 (「塾」2015年SPRING(No.286)掲載)
三田キャンパス正門と道路一本隔てた所にある慶應義塾大学アート・センター。
芸術分野に関するさまざまな研究を行っている国内有数の施設である。
そして、義塾の美学美術史学研究は100年以上の古い歴史を持っている。

1892年、森鷗外 三田で「審美学」を講ず

1897(明治30)年文科卒業生。前列右が森林太郎(慶應義塾図書館所蔵)
▲1897(明治30)年文科卒業生。前列右が森林太郎(慶應義塾図書館所蔵)
文学部の「美学美術史学専攻」の英語表記はAesthetics and Science of Artsである。aestheticsの和訳が美学であり、古くは審美学とも訳された。美学は、美の本質や構造を研究、解明するものであり、学問的には哲学の領域に含まれる。

義塾の美学教育は、1892(明治25)年の森鷗外(森林太郎)による「審美学」講義に始まり、美学美術史学の分野において、草分け的な存在である。鷗外の講義はドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの思想に基づくものであった。『舞姫』『高瀬舟』などの小説で知られる鷗外だが、美学者として、ハルトマンの著作に影響を受け『審美綱領』なども著している。

1899(明治32)年、陸軍の軍医でもあった鷗外は、北九州小倉の第12師団軍医部長に任命され、赴任するために審美学の講義から離れるが、1910(明治43)年に義塾の大学部文学科顧問となり、永井荷風を文学科教員および『三田文学』編集主幹として招聘して同誌を創刊させるなど、文学部の発展に貢献した。

1918年、澤木四方吉「西洋美術史」講義を開始

澤木四方吉(秋田県立博物館所蔵)
▲澤木四方吉(秋田県立博物館所蔵)
義塾を、いまに続く美術史研究の重要拠点に育てた先駆者は、澤木四方吉である。

1886(明治19)年に秋田県船川村(現男鹿市)に生まれた澤木は、1900(明治33)年に普通部に転入、大学部文学科を卒業後に普通部英語教員として採用された。1912(明治45)年、27歳の時に義塾の中核となる教員養成を目的とする海外留学制度で渡欧。ベルリン、ミュンヘンで同時代の新しい芸術運動に接して審美学を中心に学び、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンによるルネサンス美術の講義を聴講した。抽象絵画の創始者といわれるヴァシリー・カンディンスキーの知遇を得たのもこの頃である。

第1次世界大戦が勃発し日本人のドイツ滞在が危険になると、同じく留学中だった小泉信三らと共にロンドンに移る。その後パリを経てフィレンツェ、ローマを拠点にイタリア美術に直接触れた。
「澤木梢」の名前で出版された『美術の都』。翌年、著者自身が義塾の図書館に寄贈した。
▲「澤木梢」の名前で出版された『美術の都』。翌年、著者自身が義塾の図書館に寄贈した。
1916(大正5)年に帰国してからは、ルネサンス美術、ギリシャ美術の研究を進め、永井荷風の後を継ぎ『三田文学』主幹も務めた。翌年11月には、自身が訪れた欧州の都市と美術を情熱あふれる筆致で著した論考集『美術の都』を出版する。

1918(大正7)年に西洋美術史の講義を始め、2年後に新設された美術史科の教授に就任した。義塾のみならず、東京帝国大学でもギリシャ美術の講義を行うなど、日本における西洋美術史研究の分野で澤木の残した功績は大きい。

澤木は、多くの人材の育成にも携わった。1898(明治31)年生まれの守屋謙二も、澤木に見出された一人である。義塾で西洋近世哲学や美学を専攻していた守屋は、当初日本美術史に関心を抱いていたが、澤木の影響を受け西洋美術史を専門とするようになる。43歳で早世した澤木が完成することのできなかったヴェルフリン著『美術史の基礎概念』の翻訳を引き継ぎ、1936(昭和11)年に出版した。その後助教授になり、1939(昭和14)年にドイツ留学、第2次世界大戦終結後に帰国して教授に就任。1953(昭和28)年にはドイツで『Die Japanische Malerei』(日本の絵画)を出版し、海外で高い評価を得た。

その守屋と同時期に東洋美術史を教えたのが、1900(明治33)年生まれで、守屋とともに今日の美学美術史学専攻の礎を築いた菅沼貞三である。渡辺崋山や池大雅など、文人画を中心とする日本の近世絵画の研究で知られる。このように、義塾には、100年を超える美学美術史学研究の歴史がある。

そして1993年には慶應義塾大学アート・センターが開設され、より幅広くアートの研究と普及を推進している。
1909(明治42)年の大学文学科の授業風景。教壇に立っているのは後に文学部長を務めた川合貞一(福澤研究センター所蔵)
▲1909(明治42)年の大学文学科の授業風景。教壇に立っているのは後に文学部長を務めた川合貞一(福澤研究センター所蔵)
義塾が所蔵する美術品のひとつ、《女性頭部》(澤木四方吉と武藤金太のために)。澤木の弟子・武藤金太の息子である武藤治太氏から寄贈された。
▲義塾が所蔵する美術品のひとつ、《女性頭部》(澤木四方吉と武藤金太のために)。澤木の弟子・武藤金太の息子である武藤治太氏から寄贈された。
三田キャンパス南別館内の常設的な展示施設、アート・スペースで開催された「古代への憧景」展の様子(撮影:石戸 晋)
▲三田キャンパス南別館内の常設的な展示施設、アート・スペースで開催された「古代への憧景」展の様子(撮影:石戸 晋)