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[ステンドグラス] 記念碑が語る慶應義塾の歴史〜石碑に刻み込まれた先人の偉業〜

2015/03/16 (「塾」2015年WINTER(No.285)掲載)
創立150年を超える慶應義塾のキャンパスには、さまざまな記念碑が建っている。
今回は、三田・日吉・信濃町のキャンパスから、3つの記念碑を取り上げた。
記念碑にまつわる出来事を紹介しながら、義塾の歴史に思いをはせたい。

福澤諭吉終焉之地記念碑【三田キャンパス】

福澤先生の生涯をたたえて「大正10年三田会」が建立

福澤諭吉先生は20世紀を迎えたばかりの1901(明治34)年2月3日に、三田山上の自邸で逝去された。死因は脳出血だった。それ以前の1898(明治31)年9月26日にも同じ脳出血に襲われたものの、日常生活に不自由ないほどに回復していたが再度発作が起きた。北里柴三郎ら医師団の懸命の治療も及ばず亡くなった。享年満66歳。

最期の時を迎えた、現在の三田の図書館(新館)東側に位置した邸宅は、戦災により既になく、その跡地近くに「福澤諭吉終焉之地記念碑」が建っている。1971(昭和46)年に「大正10年三田会」が卒業50年記念として建てたものである。
三田山上にあった福澤本宅
▲三田山上にあった福澤本宅
碑には、洋学塾を開き、封建的農業国家から統一的商工国家に移ろうとする新日本を指導した福澤先生が、この地で生涯を終えた、という意味の、高橋誠一郎名誉教授の撰文が刻まれている。周囲に植えられている薮蘭(ヤブラン)は、若き先生が学んだ緒方洪庵の適塾の庭から一部移植されたものだ。

日本ラグビー蹴球発祥記念碑【日吉キャンパス】

日本にラグビーを紹介したのは義塾の英国人教員だった

英国発祥のラグビーが、初めて日本に紹介されたのは1899(明治32)年のこと。当時の慶應義塾の英文学教員で、ケンブリッジ大学でラグビー選手だったE・B・クラークが、同じくケンブリッジで学んだ友人の田中銀之助とともに塾生に指導したのが、日本におけるラグビー事始めである。

「日本ラグビー蹴球発祥記念碑」は、1943(昭和18)年に「黒黄会」(体育会蹴球部OB会)により日吉・下田グラウンドのラグビー場に建てられた。
ワールドカップトロフィーと(2014年5月)
▲ワールドカップトロフィーと(2014年5月)
2014年5月に、ラグビーワールドカップ2015イングランド大会に向けて世界を巡回中のワールドカップ優勝トロフィー「ウェブ・エリス・カップ」が、日本での発祥の地に敬意を表して、同ラグビー場で公開され、同行したウェールズ元代表選手などと蹴球部員たちとで日英交流が行われた。なお、4年後の2019年ワールドカップは日本で開催される。

医学部食養研究所跡地記念碑【信濃町キャンパス】

昭和初期の食糧問題、食事療法の先駆的な研究所を記念して

1926(大正15)年に、医学部に設置された食養研究所は、当時の日本の人口および食糧問題の解決、また患者の食事療法の研究を目的としていた。益田孝ら財界有力者の寄付によって病院正門北側に新築された鉄筋コンクリートの建物で開設された研究所では、主任の大森憲太を中心に栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われ、とくに脚気の原因究明と食事療法において業績を挙げた。
かつての食養研究所
▲かつての食養研究所
1933(昭和8)年には研究成果の実践のために、大学病院に病院食養部が設置され、日本初の病院給食の実施へとつながっていく。

大戦の戦災を免れた食養研究所の建物には、基礎教室や臨床系教室が同居し、建物は「食研」の名で親しまれた。

「医学部食養研究所跡地記念碑」は、1990年の研究所廃止とともに取り壊された建物の跡に、1999年に建てられた。その後方には、研究所の壁の一部が残されている。