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[ステンドグラス] 藤山雷太と愛一郎、そして藤山記念館

2014/08/27 (「塾」2014年SUMMER(No.283)掲載)
日吉キャンパスの正門からスロープを登り切り、左に曲がって少し進むと、右手に見えてくるのが藤山記念館である。赤レンガとコンクリート打ち放しの柱が美しいこの建築は、明治、大正、昭和初期を代表する実業家の功績を記念して建設、命名された。
日吉キャンパス生協購買部のすぐそばに建つ藤山記念館。館内のパソコン教室や自習室を利用したことのある塾生も多いだろう。実はこの建物、元は1958(昭和33)年に開館した図書館(藤山記念日吉図書館)だった。かつて白金台にあった私立の藤山工業図書館を前身とし、その名称は、創立者で塾員の藤山雷太(ふじやま らいた)に由来する。
日吉キャンパスの藤山記念館。正面には藤山雷太像が立つ
日吉キャンパスの藤山記念館。正面には藤山雷太像が立つ
館内のラウンジ
館内のラウンジ
館内のパソコン教室
館内のパソコン教室

実業界で活躍した藤山雷太 工業立国を目指し専門図書館を設立

藤山雷太(1863[文久3]年~ 1938[昭和13]年)西原雄次郎編『藤山雷太伝』(1939年)より
藤山雷太(1863[文久3]年~ 1938[昭和13]年)西原雄次郎編『藤山雷太伝』(1939年)より
藤山は肥前国松浦郡(現在の佐賀県伊万里市)で庄屋を務める佐賀藩士の家に生まれ、藩校弘道館を経て長崎師範学校で学び、卒業後は同校や小学校で教鞭を執っていた。1884(明治17)年から慶應義塾に学び、郷里で県会議員を務めた後、実業界へと転じる。1892(明治25)年、福澤諭吉の甥で「三井中興の祖」とも称される中上川彦次郎(なかみがわ ひこじろう)を紹介され、三井銀行に入行。そこで頭角を現した藤山は、銀行から送り込まれた先の芝浦製作所(現・東芝)や王子製紙で、優れた経営手腕を発揮した。三井を辞した後の1909(明治42)年には、破産寸前だった大日本製糖の社長に就任してこれを再建。企業の買収や設立を繰り返し藤山コンツェルンと呼ばれる企業群を形成するに至ったのである。

義塾では1905(明治38)年から評議員を務め、大学部医学科(現・医学部)の開設にかかる特別委員として調査研究にあたるなど、終生にわたり母校の発展に寄与している。

藤原工業大学とともに、初期工学教育の礎をなす

藤山工業図書館の館内。藤山雷太が志した「工業立国」の書幅が見て取れる(福澤研究センター所蔵)
藤山工業図書館の館内。藤山雷太が志した「工業立国」の書幅が見て取れる(福澤研究センター所蔵)
その藤山が私財を投じ、1927(昭和2)年に開いたのが冒頭の藤山工業図書館である。広く世界の工業関連誌を収集し、その蔵書は五万数千冊を数えた。外国雑誌の論文抄録速報を発行し、邦訳索引をつくるなど、充実したレファレンスサービスは、当時日本の図書館においては先駆的な試みであった。

藤山没後の1944(昭和19)年3月、図書館は子息の愛一郎(あいいちろう)によって土地建物ごと寄附され、義塾のものとなる。同年8月には塾員の藤原銀次郎が創立した藤原工業大学も寄附され、慶應義塾大学工学部(現・理工学部)が発足。本格的な高等工学教育が開始され、藤山工業図書館はその重要な礎となったのである。

戦後、米軍の接収により日吉を追われた工学部は、仮校舎を転々とする苦難の時期を過ごす。1949(昭和24)年、ようやく小金井に落ち着いたものの、白金台の図書館は地理的に遠く、利用者は激減してしまった。そこで義塾は、藤山愛一郎の了解を得て1957(昭和32)年に土地建物を売却。売却金をもとに翌年竣工、開館したのが、工学以外の一般書籍を充実させた藤山記念日吉図書館、後の藤山記念館なのである。
藤山工業図書館全景(中央区立京橋図書館所蔵)
藤山工業図書館全景(中央区立京橋図書館所蔵)
館内(福澤研究センター所蔵)
館内(福澤研究センター所蔵)
館内(福澤研究センター所蔵)
館内(福澤研究センター所蔵)

藤山愛一郎、幻のコレクション

藤山愛一郎(1897[明治30]年~1985[昭和60]年)
藤山愛一郎(1897[明治30]年~1985[昭和60]年)
父・雷太の後を継いだ愛一郎もまた、義塾への貢献大の塾員である(特選塾員。病気療養のため、大学部政治科中退)。巨額の寄附や、日吉の早期接収解除を目指す三田リエーゾンクラブ会長としての活躍のほか、幻の藤山コレクションについても忘れるわけにはいかない。

戦後、衆議院議員として中国との国交回復に情熱を傾けた愛一郎は、同国に関する貴重資料の収集家としても知られた。四千点を優に超える書籍、資料群は藤山現代中国文庫と呼ばれ、三田の図書館新館開館にあわせ、義塾への寄贈が決まっていた。しかし、開館2カ月前の1982(昭和57)年2月、彼が事務所を構える永田町のホテルニュージャパンで火災が発生。コレクションも巻き込まれ、焼失してしまったのだった。