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[ステンドグラス] 塾歌に歴史あり 1904(明治37)年制定の旧塾歌とその周辺

2014/06/03 (「塾」2014年SPRING(No.282)掲載)
塾歌には不思議な力がある。声を合わせて歌うたびに、義塾の一員であることの誇りと喜びを感じさせてくれる。ところで現在の塾歌制定以前には、実は”旧塾歌“が存在した。カレッジソングのさきがけといわれる歌である。

創立50年を前に塾歌制定の機運が高まる

「見よ、風に鳴るわが旗を…」で始まる塾歌は、1940(昭和15)年11月12日に正式制定され、翌年1月10日の福澤先生誕生記念会当夜に発表された。作詞は当時の義塾職員で福澤研究者として知られる富田正文(とみた まさふみ)、作曲は東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)教授の信時潔(のぶとき きよし)である。

それ以後、70年以上にわたり歌い継がれている塾歌だが、実はこの塾歌は二代目である。初代は今から110年前の1904(明治37)年3月に制定されたもので、現在は一般に”旧塾歌“と呼ばれている。義塾出身で当時は新聞記者だった角田勤一郎(かくだ きんいちろう)が作詞を、指揮者や作曲家として活躍した金須嘉之進(きす よしのしん)が作曲を手がけた。
創立50年記念式典。この数年前から、塾歌制定を望む声が上がり始めた
創立50年記念式典
この数年前から、塾歌制定を望む声が上がり始めた
この旧塾歌制定の背景を見てみよう。義塾創立50年(1907年)に先立ち、学内では義塾の精神をあらわす”塾歌“を求める声が高まっていた。たとえば1900(明治33)年3月3日の卒業証書授与式後の懇親会では、大学部講師の高木正義(たかぎ まさよし)が「義塾の大学をして益盛ならしめんとせば、此種の会合に於て会衆の連唱す可き極めて人心を鼓舞するの力ある塾歌を作るに若かず」と力説している。

また1903(明治36)年には第一回早慶野球試合が行われ、義塾が勝利している。この早慶試合が塾歌制定を促したという資料はないが、母校の応援のために塾歌を求める機運が高まっていたことが推測できる。

「独立自尊」「実学」を歌いカレッジソングの先鞭となる

日露戦争祝勝 カンテラ行列
日露戦争祝勝 カンテラ行列
そしてついに1903(明治36)年、ひろく塾生、塾員に向けて塾歌の歌詞募集が行われた。しかしながら、応募作の中には、社頭(当時の義塾の業務統括者)の小幡篤次郎や塾長の鎌田栄吉らの意にかなうものが得られず、角田に作詞を依頼することとなった。

角田は文芸評論家、新聞記者として活躍していた塾員で、徳富蘇峰が創刊した雑誌『国民之友』では「浩々歌客(こうこう かきゃく)」の筆名で文芸評論を書くなど、当時の論壇・文壇の重鎮の一人である。なお、彼は旧塾歌の他にもカンテラ行進歌※を手がけたりと、義塾のカレッジソングづくりに多大な功績を残している。
同年の暮れにでき上がった角田の歌詞に、義塾のワグネル・ソサィエティーの指導も行っていた金須が曲を添え、翌1904(明治37)年3月5日、ついに”旧塾歌“が制定された。

「独立自尊」や「実学」が歌われる旧塾歌は、早稲田大学や同志社大学の校歌よりも早く発表されており、カレッジソング制定の先鞭をつけたといえるだろう。

旧塾歌に先立つ”旧々塾歌“についても記しておこう。旧塾歌制定の前年、1903(明治36)年6月発行の『三田評論』第28号には「慶應義塾之歌」に関する記述がある。同年10月に刊行された『慶應義塾学報』には、同月に開かれた寄宿舎記念会で「塾歌が合唱された」との記事もあり、「慶應義塾之歌」を指すと思われる。この歌は、後に戦火で負傷した小泉信三塾長の塾長代理として義塾の復興に貢献した、経済学部教授高橋誠一郎の塾生時代の作といわれている。

このエピソードは、当時の塾生たちが、みんなで合唱できる義塾の歌を必要としていたことを示している。
旧塾歌(『慶應義塾百年史 中巻(前)』)P.689より)
旧塾歌(『慶應義塾百年史 中巻(前)』)P.689より)
慶應義塾の歌(『慶應義塾百年史 中巻(前)』)P.690より)
慶應義塾の歌(『慶應義塾百年史 中巻(前)』)P.690より)
※写真提供:福澤研究センター
※カンテラ行進歌:義塾主催のカンテラ行列のための曲。カンテラとはオランダ語で「燭台」を意味し、ブリキ缶に灯油を入れた携帯用の灯火のこと。カンテラ行列は慶應義塾独自の祝賀行事として明治から昭和初年にかけて行われ、名物となっていた。