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[ステンドグラス] 慶應義塾維持会の起源とその活動

2014/01/27 (「塾」2014年WINTER(No.281)掲載)
1901(明治34)年2月、慶應義塾は何者にも代えがたい支柱を失った。
福澤諭吉、長逝。その深い悲しみと喪失感のなか、生まれたのが慶應義塾維持会である。
福澤亡き後の義塾を支えたいと願う社中の手によって、誰もが参加でき、無理なく支援を続けることができる仕組みが整えられた。

廃塾の危機を救った社中一丸の支援

1858(安政5)年、中津藩江戸中屋敷におかれた一小家塾として出発した慶應義塾は、1868(慶応4)年、英国のパブリック・スクールに倣った同志の結社による共立の学校として新たな一歩を踏み出した。以来、社中はもとより塾外からも寄せられる多くの篤志、寄付は義塾運営の大きな支えとなってきた。

義塾における最初の組織的な募金活動は、1880(明治13)年の慶應義塾維持金の呼びかけである。秩禄処分による士族の窮乏や、政府の公費生制度が官学のみに限定されたことなどで、義塾への入学者数は激減。インフレによる経費の増大も相まって、深刻な財政難を来していた。政府や有力者らの支援を求め福澤自ら手を尽くしたが失敗。私財の投入や教員による自主的な給与切り下げも甲斐なく、経営は困難な状況に陥った。やむなく、福澤は廃塾を決意。社中に諮ったが反対を受け、寄付金による財政建て直しが模索されることとなった。そうして生まれたのが慶應義塾維持法案という寄付制度で、これに基づき目標金額7万円の慶應義塾維持金の拠出が呼びかけられた。社中一丸となった支援により、何とか廃塾の危機を脱することができたのである。

その後、1890(明治23)年の大学部開設に備えた慶應義塾資本金の募集(1889年~)や、不振に陥った大学部の維持拡充を主目的とした慶應義塾基本金の募集(1897年~)へと、募金活動は引き継がれた。

福澤の遺志を受け継ぐ維持会の発足

大学部を中心とする義塾の教育体制が整いつつあった1901(明治34)年2月、かねて闘病中であった福澤が世を去った。深い悲しみのなか今後の運営について議論がなされ、財政面で義塾を支える新たな寄付制度である慶應義塾維持会の設立が決定した。これが今に続く維持会の起源である。翌3月の発足に際し発表された趣意書には、義塾の存続、発展に向けた社中の強い決意が表れている。

「福澤先生没せらる、慶應義塾も共に葬る可きか。否な、我々は之を葬るに忍びざるなり。仰も慶應義塾は先生の最も苦辛経営せられし所のものにして、之を維持し之を拡張するは最も能く先生の志に適ふものなると信ずるなり」

義塾との絆を感じながらできる範囲で長期の支援

発足から100年以上を経て、現在の維持会員数は約4万5000名、基金は約32億円にのぼる。会員は毎年継続して寄付(1口年額1万円)を行い、各々ができる範囲で長期にわたって支援をしてもらうのが特徴だ。周年記念事業などの募金を、そのときに必要なことをする”外科的な対症療法“にたとえるなら、維持会募金は長くゆっくりと効いて健康を守る”漢方薬“のようなものといえるだろう。

三田キャンパス中庭のベンチ
三田キャンパス中庭のベンチ
維持会の主な事業はキャンパス整備、研究支援、国際交流助成など、教育・研究環境を側面から支える取り組みだ。特に注力しているのが奨学支援(維持会奨学金)事業で、今年度は90名の塾生に総額5250万円、これまでの累計では443名の塾生に総額2億3240万円の奨学金を給付している。奨学生として採用されたある1年生は、維持会員に向けた手紙の中で、「塾員と会の方たちから慶應義塾の一員として認められ、今後も頑張れと励まされている気がします」と感謝の思いを述べている。

また近年では、東日本大震災で被災した塾生のための特別奨学金にも拠出を行っている。
目に見えるかたちの支援として、キャンパスの環境整備が塾生諸君にとって身近だろう。屋外のテーブルやベンチ、防犯カメラや外灯の設置など、快適で安全な学生生活に貢献している。いつも塾生で賑わう三田キャンパス中庭の大銀杏を囲む石のベンチも、その一例だ。
奨学生と維持会役員の懇談会
奨学生と維持会役員の懇談会
維持会は誰でもいつでも入会可能で、普通会員と終身会員の2種類がある。普通会員は、1口から何口でも申し込める1年ごとの会員だ。一方の終身会員は、一括で30万円以上を納付した方が対象。いずれの会員も、月刊機関誌『三田評論』に芳名を掲載して厚志に報いるとともに、普通会員は加入期間中、終身会員は生涯にわたって同誌を贈呈し、義塾の近況を伝えている。

社中の絆を感じながら義塾の未来をつくる維持会に、ぜひご協力いただきたい。