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[ステンドグラス] 追憶の三田山上「大講堂」 ~惜しまれつつ姿を消した壮麗なゴシック建築~

2012/11/19 (「塾」2012年AUTUMN(No.276)掲載)
関東大震災前の建築当時の大講堂
三田キャンパスの現在の西校舎の位置にあった大講堂。2000人以上を収容できるホールでは、入学式や卒業式が行われたほか、芥川龍之介、アインシュタインらが聴衆に語りかけ、小山内薫は、新劇の夜明けを告げる“築地小劇場”の旗揚げ宣言をした。
※写真:福澤研究センター所蔵


関東大震災前の建築当時の大講堂

より広い演説の場を求めて大正4年に開館

壇上を望む大講堂構内
1915(大正4)年に竣工した大講堂は、図書館旧館とともにアカデミックな雰囲気を醸し出す、義塾のシンボリックな建物だった。

収容人員は約2000人。立ち席を加えると約2500人が一堂に会せる、東京でも屈指の規模であったという。同年6月6日に挙行された開館式で当時の鎌田栄吉塾長は、福澤諭吉先生が始めた三田演説会の伝統を語るとともに、その会場である三田演説館の難点であった収容人員の少なさに触れ、一度に多くの聴衆を集めて講演できる大講堂の完成を、「実に欣喜に堪えませぬ」と大いに喜んでいる。
ユニコン像
一体は修復、もう一体は復元されて、現在は中等部に置かれている
設計は図書館旧館と同じ曾禰中條(そねちゅうじょう)建築事務所。建築費7万円は、福澤桃介(ももすけ)から2万円、森村豊明(ほうめい)会から5万円の寄付を受け、付帯設備費1万5千円は義塾で賄った。

寄付者の福澤桃介は発電事業など多方面で活躍した実業家で、福澤先生の娘婿。森村豊明会名義で寄付をした森村市左衛門は、福澤先生の考えに共鳴して貿易の先駆者となり、後の森村商事となる森村組や日本陶器( 現ノリタケ)、東洋陶器(現TOTO)などを設立した実業家である。

大講堂で弁を振るった歴史上の著名人たち

芥川龍之介やアインシュタインなど、
大講堂では多くの著名人が講演を行った
三田の図書館旧館横の文学の丘に「しぐるゝや 大講堂の 赤れんが」と刻まれた石碑がある。塾員で作家・俳人の久保田万太郎が、義塾で教鞭を執り、築地小劇場の旗揚げ宣言などの講演を大講堂で行った亡き小山内薫を偲んで、別れの悲しみを雨に濡れる大講堂のレンガに重ねて詠んだ句である。

大講堂では、小山内の他にも、芥川龍之介や有島武郎などが満場の聴衆に語りかけた。またアジア人初のノーベル賞受賞者であるインドの詩人タゴール、物理学者アインシュタインなど、海外からの文化人たちも、講演を行っている。

1932(昭和7)年には義塾創立75年記念式典が大講堂で開催され、かつて義塾で学び、時の総理大臣となっていた犬養毅も列席している。犬養が五・一五事件の凶弾に倒れるのはその6日後のことである。

震災後に並んだ一対の像 戦禍を受け迎えた終焉の時

空襲を受け鉄骨がむき出しになった
大講堂内部
1923(大正12)年に起こった関東大震災では、大講堂も大きな被害を受けている。修繕にあたっては玄関を中心に大幅な改装が施され、同時に3階バルコニーに一対のユニコン像が設置された。一見グロテスクながら案外愛嬌のある姿で塾生、教職員に親しまれたというが、その来歴や設置に至る経緯は今もって謎である。

1945(昭和20)年、終戦を目前にした5月。三田山上にもいよいよ戦火が迫る。空襲による被害は甚大で、内部は完全に焼け落ち、威容を誇った大講堂は外壁が残るばかりの無残な姿となってしまった。修復に望みをつなぎ、戦後も10年以上にわたって廃墟のまま存置されたものの、1957(昭和32)年、西校舎建設のため遂に取り壊された。

福澤先生、馬に乗り外務省へ集金 ~森村市左衛門の大講堂完成祝辞より~

森村市左衛門は、大講堂開館式の祝辞でこんな話を披露している。明治維新前夜、貿易で国を富ませたいと福澤先生に相談したところ、「戦争のこととか政治のことなどは皆が騒いで居るが、如何にも今日の急務は外国貿易である」と励まされたこと。また貿易事業開始後、為替などない時代に外国から日本への送金に困って相談したところ、先生は、売り上げをその国の日本公使か領事に納めて、その領収書をもとに外務省から金を受け取る段取りをしてくれた。そして森村が領収書を渡すと、先生は早々に馬にまたがり外務省へ向かい金をとって来てくれたという。明治初期の貿易事始めの実情を伝えるとともに、馬上の先生の姿が目に浮かぶエピソードである。