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[ステンドグラス] 福澤諭吉、万博へ行く

2010/12/07 (「塾」2010年AUTUMN(No.268)掲載)
現在、上海で万国博覧会が開催中(「塾」No.268発行[2010/10/15]当時)。日本初の万博が大阪で開かれたのは今から40年前の1970年である。さらにその100年以上前、1862年に開催されたロンドン万博を見物した福澤諭吉先生は、『西洋事情』初編にて開かれた文化交流の仕組みを紹介し、文明開化を担う維新前夜の若者たちを刺激した。

※→慶應義塾福澤研究センター所蔵画像資料

ロンドン万博の様子を伝える 福澤先生の『西洋事情』初編

1862(文久2)年、幕府遣欧使節の随員としてヨーロッパ歴訪の際にロンドンで写す
1862(文久2)年、幕府遣欧使節の随員としてヨーロッパ歴訪の際にロンドンで写す※
中国・上海で開かれている万国博覧会は10月31日にその幕を閉じる。
日本が東京オリンピック、大阪万博を契機に国として大きく飛躍したように、中国も北京オリンピックと上海万博を経て、さらに国力を発展させるに違いない。

万博の歴史を遡ると、欧米で盛んになった国内博覧会が、やがて国境を越えて数カ国の物産品を展示する国際博覧会に発展し、1851年に初めての万国博覧会がロンドンで開かれた。会期は5カ月半に及ぶ本格的なものだった。その後、ニューヨーク、パリでの開催を経て、1862年にふたたびロンドンで開かれた万博を、幕府遣欧使節団の一員だった福澤諭吉先生が見物している。

その経験をもとに、1866(慶応2)年出版の『西洋事情』初編で、博物館と博覧会について触れている。過去の技術の成果を展示する博物館の意義は伝えつつも、技術は日進月歩であり、かつての新技術も「方今に至っては陳腐に属し、昨日の利器は今日の長物となること、間々少なからず」と記してから、「故に西洋の大都会には、数年ごとに産物の大会を設け、世界中に布告して各々其国の名産、便利の器械、古物奇品を集め、万国の人に示すことあり。之を博覧会と称す」と、新しい技術や産品を広く伝える国際的な博覧会の意義を、的確に伝えている。

1862(文久2)年、ロンドン万国博覧会での遣欧使節団 「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」より
1862(文久2)年、ロンドン万国博覧会での遣欧使節団
「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」より
また自ら見聞したロンドン万博について、「千八百六十二年龍動(ろんどん)に博覧場を設け、毎日場に入るもの四、五万人に下らず」とその見物者の多さを伝え、「博覧会は元と相教え相学ぶの趣意にて、互に他の所長(長所)を取て己の利となす。之を譬えば智力工夫の交易を行うが如し」と、万博は技術や知識の国際的な交流に大いに役立つことを説いている。

『西洋事情』初編は君主制や共和制などの政体や、議会制度を紹介し、明治維新前夜の人々に大きな影響を与えた当時のベストセラーだが、国境を越えて開かれる博覧会の紹介も、長い鎖国を続けてきた国の人々には驚きであり、また大いに刺激になったと思われる。実際に、同書出版の翌年1867年に開かれたパリでの2度目の万博で、日本から初めて正式な出展が行われている。徳川幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩も展示場を設けて陶器や漆器を出品し、ヨーロッパでジャポニズムのさきがけともなった。

「これは面白し、これこそ文明の計画に好材料なれ」

『西洋事情』
『西洋事情』※
福澤先生は1897(明治30)年出版の『福澤全集緒言』において、自著『西
洋事情』のことを「余が著訳中最も広く世に行われ最も能く人の目に触れたる書」と振り返っている。

ここでは、英国で政党の存在を知って、「徒党」を組むことが禁制とされていた当時の日本との違いに驚いたことや、フランスでは印紙(切手)を貼ればあたかも独りでに手紙が届く郵便事業に感心したこと等とともに、「(病院や博物館)、博覧会など目に観て新奇ならざるものなく、その由来その効用を聞きて心酔せざるものなし」と約35年前の使節団随行体験を懐かしんでいる。

さらにこの緒言では、先生が見聞を記した『西洋事情』が人々に大いに読まれ、「大勢力を得て日本全社会を風靡したる」ことについて、面白いことを書いている。
維新を推進している諸藩の有志者は有為な人物であり、武士道に養われて活発ではあるものの、東洋の学問に疎く、儒学から見れば「無学と言わざるを得ず」という存在である。しかしながら、この儒学に対して無学の有志者こそが「維新の大事業を成し」たのであり、その彼らが「国を開いて文明に入らん」と望んだときに、目にふれたのが『西洋事情』であった。そして「これは面白し、これこそ文明の計画に好材料なれ」と彼らの心の拠りどころとなった。

そのことは、志を同じくする者たちに口コミで広がり、『西洋事情』は文明開化を求める者たちの座右の書となったのであろう、と、先生自身が分析しているのである。

年表
「文明の計画に好材料」となったものは、西洋の政治のかたちや仕組みはもちろんであるが、万国博覧会を開いて情報を伝えながら互いに学び合うという開放的な考え方も、また当時の若者たちを刺激したはずである。つまり『西洋事情』は、明治維新を促し、文明開化を加速させるかけがえのない一冊であったのだ。

日本が近代化の道を歩き出してからおよそ100年後の1970年、敗戦、高度経済成長を経て、ついに我が国で万博が開かれるに至った。更にそれから40年後の今年、維新の有志者が西洋に目を開くために乗り越えた「儒学」、その発祥の国である中国において、上海万博が華々しく開催されている。