メインカラムの始まり

[ステンドグラス] 長幼も男女も隔てなく愛した~福澤諭吉と9人の子供たち~

2010/02/15 (「塾」2010年WINTER(No.265)掲載)
日本初といわれる乳母車をアメリカから持ち帰り、幼い子たちに徳義や知識を小話仕立てにして毎朝書き与える。子煩悩で教育熱心、そして9人の子供全員を平等に愛した現代のマイホームパパのさきがけのような福澤諭吉先生の家族愛を知る。

画像提供:慶應義塾福澤研究センター

「九人の子がみんな娘だって 少しも残念と思わぬ」

福澤諭吉と息子、一太郎(右)・捨次郎(左)
福澤諭吉と息子、一太郎(右)・捨次郎(左)
福澤先生の家族は、夫婦に四男五女の11人。大家族である。その家族観は、「人間(じんかん)の交際は家族を以て本(もと)とす。(中略)凡そ世間に人情の厚くして交の睦きは家族に若(し)くものなし」(『西洋事情外編』)と言い切るほどに、人間関係の基本として、家族に重きを置くものである。

また男尊女卑や長男偏重主義の時代にあって、家族における平等の大切さも強く説いている。
「四男五女の其男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。(中略)娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。(中略)男女長少、腹の底から之を愛して兎の毛ほども分隔(わけへだ)てはない。」(『福翁自伝』)

そして先生は、錦(きん)夫人とともに9人の子供たちを慈しみ、大切に育てた。慶応3(1867)年の2度目の渡米の際には、すでに生まれていた二人の息子のために、日本に初めて持ち込まれたといわれている乳母車を土産にしている。外国を敵視する攘夷の風潮が強い中、周囲の目は冷ややかだったと思われるが、そんなことを意に介さない子煩悩な父だった。
『ひゞのをしへ』表紙
『ひゞのをしへ』表紙
『ひゞのをしへ』は、明治4(1871)年に、8歳の一太郎と6歳の捨次郎に与え
た小話集である。毎朝二人を書斎に呼んで、帳面に一遍ずつ書いて渡したもので、二人はそれを楽しみにしていたという。
残された半紙四つ折りの一太郎の帳面冒頭には、「おさだめ」として、
一、うそをつくべからず。
一、ものをひらふべからず。
一、父(ちゝ)母(はゝ)にきかずしてものをもらふべからず。
一、ごうじやうをはるべからず。
一、兄弟けんくわかたくむよふ。
一、人のうはさかたく無用。
一、ひとのものをうらやむべからず。
と7つの文言が記されている。
続いて、十月十四日の日付のもとに以下の文が書かれている。
「ほんをよんで、はじめのはうをわするゝは、そこなきおけに、みづをくみいるゝがごとし。くむばかりのほねをりにて、すこしもみづのたまることなし。されば一さんも捨さんも、よんだところのおさらへをせずして、はじめのはうをわするゝときは、よむばかりのほねをりにて、はらのそこにがくもんの、たまることはなかるべし」〈『ひゞのをしへ』旧かな遣いのまま引用〉
おさらいをすることの大切さを書いているのだが、「一さん」「捨さん」と呼びかけているところに愛情がにじんでいる。この帳面による教育は、その頃ほぼ毎日続けられた。
「留学心得」
「留学心得」
12年後の明治16(1883)年、一太郎と捨次郎のアメリカ留学に際しては、「留学心得」をしたためて渡しただけでなく、約6年間の留学中にもほぼ毎週手紙を書き、その数は300通以上にも及んだ。また、「彼方(あちら)の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越す。(中略)『用がなければ用がないと云て寄越せ』」(『福翁自伝』)と申しつけていたのである。たとえ太平洋を隔てていても、親子のコミュニケーションを大切にしていたことがわかる。

至極楽しい家族団欒なれど それは「苦楽の交易」のたまもの

一太郎、捨次郎の写真とアメリカから持ち帰った乳母車
一太郎、捨次郎の写真とアメリカから持ち帰った乳母車
現代の日本は核家族化が進み、兄弟の数は少なくなっただけでなく、家族を作らない人も増え続けている。人間関係の根本として家族の大切さを語る福澤先生だが、それは単に一方的な大家族礼賛ではない。独身者の心情にも目配りをしている文章が残されている。

「元来人の我儘の一方より云えば、独身ほど気楽なるはなし。あらゆる快楽は独り之を専らにして、苦痛あれば自業自得と観念するのみ。起居眠食、出入進退都て勝手次第にして、傍に遠慮するものとてはなく、恰も唯我独尊の境界なれども、既に結婚して人の妻と為り人の夫と為るときは、即日より独身の気楽は断絶して、寝るも起るも、出るも入るも、思うがままに自由ならず、(中略)独身より出でて結婚するは、是れまで苦労の種の一つなりしものを二つにする姿にして双露盤の上には誠に割りに合わぬようなれども、左る代りに結婚後の楽しみは独身の淋しき時よりも一倍して尚お余りあれば、差引して勘定の正しきものなり」
そして、子供が増えることも楽だけではなく苦労が伴うとも言っている。

「一人の子を産めば一人だけの苦労を増すと共に歓びをも亦増し、二人三人次第に苦楽の種を多くして半苦半楽、詰る処は人生活動の区域を大にするものと云う可し」
先生は「家族団欒は至極楽しきことなれども」、それは労が伴う「苦楽の交易」であると記している。家族のこととはいえ、情に寄りかからずに、合理的な考えを大切にする先生らしい言葉である(いずれも『福翁百話』)。

福澤先生の9人の子供たちのその後は、長男の一太郎は教育者となり義塾社頭に、次男の捨次郎は時事新報社長になった。里、房、俊、滝、光の5人の女子はそれぞれ結婚したが、長女の里は夫が早世した後、福澤家で過ごした。三男の三八は義塾で数学者として教え、四男の大四郎は実業家となった。