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[ステンドグラス] 義塾を愛し続けて80余年 戦後日本教育の功労者 高橋誠一郎君

2009/10/26 (「塾」2009年AUTUMN(No.264)掲載)
1898(明治31)年5月1日に14歳で普通部に入学してから、1982(昭和57)年2月9日に名誉教授として97歳で永眠するまで、高橋誠一郎君は80年以上の長きにわたり、義塾に関わり、義塾を愛した。戦後は文部大臣、日本芸術院長などを歴任しながらも、92歳まで塾生のために経済学の講義を続けた。

福澤先生の散歩のお供をし 子息、孫たちとも親しんだ

高橋誠一郎君 慶應義塾福澤研究センター所蔵
高橋誠一郎君 慶應義塾福澤研究センター所蔵
故高橋誠一郎名誉教授は、福澤諭吉先生から直接話を聞き、ともに散歩をし、先生の最期の際には、その近くから一心に回復を祈るなど、先生の謦咳(けいがい)に接した最後の人々の一人である。

「私が初めて福澤先生を見たのは、明治三十一年九月二十四日の三田演説会だった。(中略)先生は少し腰をかがめて、すたすたと演壇にあがり、両手をテーブルについて、ベラベラとしゃべり出した。(中略)能弁ではあるが、決して雄弁ではなかった」(『私の履歴書』日本経済新聞社編)

これだけなら、中学生が先生の最後の演説を聞いたというだけの話である。しかし、この演説の2日後に脳溢血で倒れた先生が、約1年の療養の後に散歩を始め、寄宿舎前の井戸端で顔を洗っていた高橋君に声を掛けたことがきっかけで、毎朝の散歩のお供が始まったのである。そして「福澤家の若い人たち、三男の三八君、四男の大四郎君、最年長のお孫さん中村愛作君などと親しい友だちになり、たいてい一日二、三回は福澤家に遊びに行くようになった」(同上)と言うほどに、家族との交流も深まる。

その頃、上記3名と福澤邸に寄宿していた数名で結成されていた「自尊党」に加わる。党員は「独立自尊」の思想に心酔し、勝手に先生を「総理」に据えていた。明治時代らしい血気盛んな若者たちの姿が彷彿とされる。高橋君自身、後の大学政治科の学生時代には、停滞感が漂う義塾を活性化すべく、学生の立場から大学改革を唱える学生機関誌『三田評論』の編集者、執筆者として活躍するほど情熱家だった(現在の義塾機関紙『三田評論』とは異なる)。

1901(明治34)年1月、先生が再び倒れた時も福澤家に居合わせ、臨終までの数日を、夜を徹して先生の病気平癒を祈って過ごしたのである。

「やかましく言わないが、なんとなくこわい先生だった」

濱田台児「高橋先生像」 交詢社所蔵
濱田台児「高橋先生像」 交詢社所蔵
1908(明治41)年、大学政治科を卒業し普通部の教員になり、翌年には大学部予科教員に移り、2年後には経済理論・経済学史研究のためにイギリスに留学した。ただし大学には通学せず、図書館で資料を読み、翻訳に取り組むうちに喀血、サナトリウムでの療養を経て、1912(大正元)年に帰国。しかし、病状は軽く、療養を経て3年後に理財科教授として教壇に復帰して「経済原論」「経済学史」を担当した。

名誉教授になってからは、枯淡の味さえある穏やかな講義ぶりだったが、現役教授の頃はかなり厳しかった。

「或る日、一人の友人が脇見をして何かシャベッていたら、先生はツカツカと教壇から降りて来て、襟元をつかんで、吊り下げるようにして教室の外に放り出してしまった。(中略)先生はやかましく言われなかったが、なんとなくこわいところがあって、私達は時間中、緊張していたものだ」(萩原吉太郎「高橋誠一郎先生を語る」『三田評論』1980年1月号)

ただし、その美声と名調子の講義は定評があり、「ノートをとるのを忘れて聞き惚れていた」という塾生も多い。

経済学者として『経済学前史』『重商主義経済学説研究』『古版西洋経済書解題』などの著書があり、特にイギリス重商主義学説の研究の評価は高く、1979年の文化勲章受賞の選定理由に挙げられている。

文部大臣を務める一方で浮世絵コレクターの顔も

喜多川歌麿「高島おひさ」 慶應義塾蔵
喜多川歌麿「高島おひさ」 慶應義塾蔵
戦後は、空襲で大火傷を負った小泉信三塾長に代わり、1946年4月から翌年1月まで塾長代理を務めた。インフレ対策として政府が取った旧円封鎖と新円切り替えの難局を乗り越え、義塾復興の準備を整えた。その活躍は義塾内にとどまらず、引き続き吉田茂内閣の文部大臣に就任し、在任中に「教育基本法」「学校教育法」の制定に尽力した。

高橋君は、文部大臣就任の挨拶で「(戦前の)日本にとっての最大の禍根は、強烈な個人的自覚の時代がその歴史に存しなかった」こととし、「明治の大先覚者福澤諭吉先生が、多年、主張してこられた独立自尊主義が、多く世の容れるところとならなかった」ことが遺憾であると続け、「慶應義塾に学び、慶應義塾を卒え、慶應義塾に教鞭を執っておりました私は、今、この学塾が長年主張し来った独立自尊主義の教育が実際に施さるべき時期の到来したことを確信し」大任を受託した、と結んだ(前出『私の履歴書』より)。

この就任挨拶は、本人の意気込みを示すのみならず、時代を超えて塾生、塾員のすべてに、大いに勇気と誇りを与えてくれる素晴らしいものである。

その後、日本芸術院長を30年間務めたことを始め、文化財保護委員会委員長、日本舞踊協会会長、国立劇場会長などの要職を歴任した。この経歴を見て「経済学者がなぜ」と思う人もいるだろうが、これにはわけがある。高橋君は、有数の浮世絵コレクター兼研究者で、さらに歌舞伎から落語まで芸術・芸能への造詣が深く、芸術の理解者としても第一人者だったのだ。1500点にのぼる蒐集品は、いまは「高橋誠一郎浮世絵コレクション」として義塾に所蔵されている。今年は、高橋誠一郎君の生誕125年にあたる。そして9月19日から11月23日まで三井記念美術館において、慶應義塾創立150年記念「夢と追憶の江戸-高橋誠一郎浮世絵コレクション名品展」が開かれている。